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【連載小説】十三月の祈り ep.9

 夜のホームで女の子が倒れていた。どうしたのかと彼女の顔を見ると、口元が赤い血で染まっていた。――あなたがそう書き記したのは、遡ること四年前の真冬。真冬にしては、薄いトレンチコートを羽織って震えた手で口元を押さえていた女の子は、彼女、由紀さんだった。あなたはすぐに理由を問わず、自分の羽織っているダウンを脱いで彼女の身体に被せた。そのとき、あなたは由紀さんのショートパンツから出ている脚が素足で、倒れた拍子のせいなのか、膝に青紫色の痣と傷ができているのを見つけた。きっと、その瞬間からあなたは、由紀さんの手を離すことはしない、と決意したのだろう。たとえ自分を犠牲にしてでも、あなたは必ず目の前にいる弱い人を助けずにはいられない。そういう性に生まれ、そしてそのなかで相反する人格が生まれたこと。そのふたつの連関が、あなたを不幸にさせた。
 すぐに救急車を、とあなたがiPhoneを手にしたら、由紀さんの手で邪魔をされた。救急車なんか呼ぶなよ、ほっといてよ。由紀さんは、口元を押さえながら声を振り絞るようにして訴えた。病院にかかったほうがいい、とあなたが説得しようとしても、由紀さんは抗った。嫌だ、病院なんて……、それにわたし保険証なんか持ってない。嫌がる由紀さんに、あなたは問いかけた。じゃあ、君はどうしたい? それから由紀さんは、血が混じった唾を吐き出して言った。――わたしはこのまま死にたいんだよ。
 それから先どうなったのかは、日記には書かれていない。でも、それ以降からあなたの日記には由紀さんが登場してきた。初めて自分のシャツを洗濯してくれたこと。美容院にも行くのが億劫な由紀さんの髪を、あなたが染め直して顎先までの長さに切り揃えたこと。車に乗せたら、あなたが止めても由紀さんは窓から顔を出して、春の風を感じながらハスキーな声で気持ちよく歌い出したこと。由紀さんの提案で、お揃いのスマホケースにしたこと。あなたが本を読むときに、いつも由紀さんに邪魔をされること。そうした日常を書いていくあなたは、束の間でも幸せでしたか? ――幸せだったかなんて問う人間ほど、退屈なものはない。わたしが描いたあなたは、いつもそう答えた。そうして、問いから逃げようとするのだ。
 あなたは由紀さんのために、安全な環境を与えた。あの夜に、由紀さんに暴力を振るった人間を引き離し、由紀さんと結婚をすることで、あなたは彼女に居場所を作った。物質的にも与える限りのものを贈り、由紀さんを満たそうとした。――由紀には責任のようなものを感じる。そんなことさえ、書いていたあなたを愚かだと思う。義務や使命で人を愛そうとすることなどできない。やがて由紀さんは、ほかの場所に愛を求めようとした。空疎にも感じられる「真実の愛」というものを探して。
 ――裏切られることはわかっていた。由紀は置物の鳥じゃない。鳥籠のなかに入れても、由紀の意志の強さなら柵の隙間から出ることだってできる。傍にいる人が「そのままの状態」でいる、と安心している人間ほど愚かなものはない。人は常に自由を欲しているのだから。だから、僕は人を信じることはしない。だが……。
 
 だが、覚悟をすることと体験することは違う。線で消したあとがあっても、その文が書かれてあるのがわたしにはわかった。それからあなたは、由紀さんを満たせなかった自分を、責め続けた。
「あなたが日記を処分しないでいたのも、理由があるのでしょう?」
 すぐ傍にいるはずのあなたに向かって放った言葉が宙に浮く。あなたの気配が空間から薄れ、隣を振り向いてもそこは無機質な青い部屋がただあるだけだった。わたしは、ベッドの下に落ちている枕を拾って胸に抱きしめた。今感じている胸の痛みは、自分のものではなく、あなたのもののような気がした。
 あなたがしてあげられなかったことは、誰にもできなかったことなのだ、と言いたかった。
 
 ***

 真珠に似せた、イアリングを耳にかけて鏡を見る。首が露わになるくらい切り揃えた黒い髪が顔と馴染めず、美容院の帰りにアクセサリーを幾つか買ってみた。片耳だけに髪をくくり、顔を斜めに向けてみる。やがて視線を下ろし、ティッシュを口元にあて、口紅の色を少し落とした。自分に合わないことをやっている、と思った。無意味なことをしている、とも。きれいな姿であの美術館にもう一度行ったとしても、そこにあなたはいないということをわかっているのに。
 コートを羽織って外に出ると、階段を掃除しているアパートの住人に出会う。下の階に住んでいる初老の婦人。ふいだったので、お互い気まずそうに笑みを交わしながら、挨拶をする。なぜだか、婦人のほうが「すみませんね」と先に謝り、階段を降りていく。申し訳なく感じながらわたしも降りていくと、「どこかへお出掛けですか?」と訊ねられる。はい、美術館に……。と言葉を濁しながら頭を下げるだけで、視線を合わすことさえできない。わたしは話が続くのを怖れていた。
「美術館、いいですねぇ。午後から雨が降るみたいですよ。気をつけて行ってらっしゃいな」 
 それで、話は終わった。わたしは婦人に曖昧に笑みを返し、大通りに出る道へ進んだ。周囲に関心を払わない人々に紛れたとたん、安心をした。
 数日前、社員の谷村さんから美術館のチケットをもらった。パソコンに向かって入力している最中に、画面の上を谷村さんのきれいに彩ったピンク色の爪先が過ってきて、わたしは思わず息を呑んだ。その反応を見て谷村さんは、「びっくりしました?」といたずらっこみたいに満悦そうに目を細め、小さな笑いでずれたマスクを指先で直した。それから、美術館のチケットをわたしの机の上に置き、「白井さん、絵とか興味あります? これ、事務長からもらったんですけど、一枚しかなくて。わたし、ひとりで美術館行くのとか耐えられないんです。静かに絵を観察するの、苦手で。もし良かったら、白井さんもらってくれます?」と早口で話した。興味なかったらいいんですけど、と数秒反応しないわたしを見て、谷村さんは付け足した。
 ……絵、好きです。本当にもらっていいんですか? 
 鈍くも遅れて答えたわたしに、谷村さんは少し喜びの色を顔に見せた。マスク越しでも、それがわかった。もらっていいに決まってるじゃないですか。ここの社員で、絵画をわかる人なんていませんよ。みんなに失礼な話だけど。……ありがとうございます。わたしも、絵画なんてわからないけど、好きです。ありがとうございます。――それから、谷村さんはわたしの肩に、軽く手でぽんぽんと叩いたあと、その手をひらひらと振って、自分の席に着いた。谷村さんの爪先に描かれていたのは、赤いコスモスだった。
 気を遣わせてしまっているのは、わたしのほうかもしれない。
 何年も職場にいて、あまり笑い顔を見せないわたしを、谷村さんはずっと気にかけてくれていたのかもしれない。今になってそのことに気づき、それまで周囲に関心を向けず、職場で不注意を起こさないよう、自分のことだけに神経を遣っていた自分自身を愚かだと思った。そして同時に、谷村さんみたいな存在がすぐ傍にいること、目を向けないだけで自分は恵まれていることを、知った。

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