成果の見えるもの

引っ越しが終わっても、まだ生活するのにはほど遠い。いちばんの痛手は、水道の水漏れ問題がまだ未解決なところ。なにしろ、築3〇年の物件なので、水道の蛇口が錆びていて、そのまま直接飲み水として使うのは不安だから、浄水器をとりつけたいと思っていた。けど、浄水器をとりつけると、蛇口の付け根の部分からスプリンクラーのように、四方に水が飛び散ってしまう。参ったな……と思いながらも、今も業者待ち。

代わりに先日、無印良品のベッドと机が届いた。こんなご時世のなか、重い家具を運んでくれた業者さんに感謝しつつ、少しずつパソコン作業できる環境が整っていくのが少しうれしかった。しかし、ベッドに関しては、布団とシーツを買っていなかったので、まだそこで寝ることはない。

気がつけば、もう4月の半ばを過ぎている。

来月には仕事に復帰する予定でいるのだけど、復帰するのが怖い。怖いと思うけれど、やるしかない。先週から、リハビリとして1~2時間くらいパソコンでリサーチ作業をしている。でも、どうしてもパソコンに向かうのが怖くて、パソコンを開かない日もある。そういうときは、「そういう日」にしておき、次の日にまたパソコンを開いて、気休め程度にパチパチと検索している。そんな毎日。

小説もお仕事も、正解の見えないもので、費やした努力が必ず報われるものでもない。もちろん、努力や工夫はあってしかるべきなのだけど、読者という第三者の評価は予想がつかないので、努力が100%結果にはならない(と思っている)。

だから、成果の見えるものをやってみたくなった。100%とはいわないけれど、努力が成果に直結しそうなもの。ということで、語学の勉強をし始めている。今までにも何度かチャレンジしてきたけども、いつもとん挫してしまい、続けることができなかった。続けられなかったことを、今一度考え直し、勉強方法が効率悪かったのでは? と思いいたった。

たとえば英単語を覚えるために、スペリングを繰り返し書くということを前まではやっていたのだけど、それではひとつの単語に要する時間がかかり、いちにちにインプットさせる単語数が少なくなってしまう。それなら、「聞いてその単語をしゃべってみる」ほうが、時間は短縮させられるし、負荷なく続けられる。

もちろん、「書く」ことは、記憶の定着につながるし、つづりを正確に覚えられるだろう。でも、わたしはまだ外国語で作文を書いたりする段階の前の前の前段階くらいなので、その必要は今のところない(と思った)。

成果の見えるもの、といっても、別に検定試験に臨む予定は現時点ではない。でも、とにかく「身についている」「理解してきている」感覚が欲しい。

自粛期間中は、語学の勉強、読書、リサーチ、小説の構想づくり、くらいしかやっていない。合間あいまに、カルディで買った酸味のないコーヒーを飲んで、音楽を聴いてぼんやりしているくらい。まだ引っ越し先では、(水道使えず)自炊ができないし(布団がなく)寝れないので、ご飯と寝に実家に帰っている。







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