【連載小説】十三月の祈り ep.13

 窓の外で風が唸る音がした。食事を終えるとあなたは立ち上がり、カーテンを少しだけ引いてそこから窓の外を見ようとした。隣の庭を見るのだと思ったから、暗いから、と言い、そう言ったのと同時に、雨が降り出しているよ、と窓から振り向いたあなたは眉を下げて言った。少し笑みを浮かばせたその顔が、余計に悲しそうだった。申し訳ないけど、お水くれる? あなたに頼まれて、わたしはマグに水を注いで渡した。あなたは、コートのポケットから小さなポリ袋に入れた錠剤を取り出して口に入れ、水を流し入れた。わたしが不安そうに見守っていると、大丈夫、ただの頭痛薬だよ、と弱く笑ってわたしの頭に手を伸ばしかけた。そしてその手を下ろし、偏頭痛ってやつかな、と独り言のように呟いて顔を背けた。身体中が痺れて熱く、わたしも顔を俯かせて食器を下げるふりをして台所に逃げた。あなたがふだん由紀さんにやる癖で頭に触ろうとしたのだ、と理解していても、あなたをそれまでよりも意識せずにはいられなかった。
 お湯に変わる前の水に手を浸し、心臓の音が耳の近くで鳴るのを感じながら息を大きく吐いた。あなたのiPhoneからの音が途絶え、部屋には皿に落ちる水の音と、静かなあなたの気配だけが残った。そして、あなたが呟くように言った。
 この部屋に住んでいて、寂しいと感じたことある?
 蛇口を閉め、あなたの問いを聞き返した。
 ……よく思い出せません。あったかもしれないけど、もうひとり暮らしをして長いですし。寂しさは、ひとりでいたときよりも、学校の中にいたときのほうが強かったです。
 あなたは「模範解答みたいな返事だね」と笑った。
 吉原さんは、孤独だと思ったときありますか。 
 返答を聞く前に部屋の外でトラックが通り過ぎる音がして、部屋が軋んで空気が震えた。
 寂しさと孤独は別物だということ、知ってる?
 わたしの問いに答えず、あなたは問いを重ねた。その質問が理解できず、リビングのほうへ、顔を覗き込んだ。あなたがラグの上に胡座を掻いて、机横のヒーターに手をかざしているのが見えた。まだ寒いですか? わたしが聞くと、あなたは「孤独でいるほうが楽なんだ」と呟いた。
「孤独になる瞬間はいつでもあるよ。でも、僕はそれをつらいものだとは思わない。むしろ、誰かと一緒にいるときのほうが、心が苦しくなる場合だってある。君が学校の中にいたときに、寂しさを強く感じたように。寂しさは感情で、孤独はただの状態だ。ひとりでいれば、すれ違いもない。誰かから否定されることもない。誰かと一緒にいるときに心を通わせられない事実に、悩まされることもない」
 伸びた髪があなたの目元を隠し、どんな表情で語っているのかがわからなかった。離れてあなたを観察するとどこかやつれたように見え、あなたの首もとの喉仏が、以前よりも突き出ているのに気づいた。喉の奥が狭まる感覚がした。
「君がこの部屋に住んでいても、寂しさをあまり感じないのなら、孤独を楽しめている、とも言えるかもしれないね」
 ヒーターから手を離すと、うちにもこういうの欲しいな、と話題を逸らした。なぜだか安堵の息が洩れ、ネットで買ったんです、と先ほどのあなたの話には触れず、隣に近づきヒーターの説明をした。人感センサーがついてあって、人が近くに来ると温度が変わるんです。タイマーもついてあるから寝る前にセットして、眠りにつく頃には自動的に切れるようになっています。
 あなたの様子を見ながら、わたしは隣に座った。あなたの腕がセーター越しに触れても、気づかないふりをした。あなたに対して、ではなく自分自身に向かって欺くように。
 あなたがしているように、手をかざした。手のひらに熱が伝っていくのを感じた。熱はやがて身体中を支配した。

 それはわたしにとって、幸せな時間だった。

 日記にはその日、あなたがわたしの部屋に泊まった、と書かれてあったけど、あなたは二十一時になる前に帰っていった。きっと由紀さんがいる家ではなく、夜中も営業しているお店で時間を潰していったのだろう。帰り際、わたしはあなたに傘を貸した。ビニル傘だから返さなくていい、と言ってしまったことを今でも後悔している。返してほしい、と言ったのなら、あなたは少しでもこの世界に留まっていたのだろうと思うから。そしてあなたにまた会えたのかもしれないから。
 ――もう後悔したことを思い出すのをやめなよ。ほら、泣いているじゃないか。
 心の中にいるあなたの声で気づき、顎に伝う涙を手の甲で拭った。電車の扉に額をあて、誰にも顔を見られないよう彼らから背を向けた。手垢のついた楕円形の窓には、夜空に信号を送るようにビルの灯りが点滅しているのが見えた。灯りは滲み、膨張し、そして別の光と交差する。あの日の夜、あなたが玄関で靴を履くのを見ているとき、寂しさはやってきた。それに気づいていたのに、わたしはあなたに傘を渡し、無理して顔を上げて見送った。玄関ドアが締まって、外であなたの傘が開く音が聞こえて、わたしは足元の寒さを感じた。寒さと寂しさは似ている、と思った。

***

  建物の外で、サアサアという音がした。カフェの自動ドアが開くと、傘を手に持った人が入ってくる。わたしはペンを動かす手を止め、傍らのiPhoneに手を伸ばした。現在地の気温は3度、降水確率80%。雲から雨が降っているマークが並んでいた。ホーム画面に戻し、向かいの窓ガラス越しに外の景色を見る。夜にしては少しほの明るい空。車道を滑る車のライトに照らされて、白く細い雨の跡が浮かび上がる。霧雨程度の降りかただ。
 あなたがいる場所にも雨が降っていますか。
 あのときの傘を今でも持っていますか。
 あの日、あなたはどこで夜を明かしたのですか。
 その問いを、青いノートに書き記す。心に描くことすべてを書いていけば、あなたの本当の姿が見えてくると信じていた。でも、ノートの中はあなたへの問いだらけで、あなたの答えを導き出すことは困難だった。――今のわたしは、「寂しさ」を感じることが多い。ひとりでいることが寂しいのではなく、あなたが不在である事実が寂しいのではなく、問いが浮かんでもあなたを心にうまく描けない瞬間があると、寂しさを強く感じる。誰かと一緒にいたい、という思いが満たされないときに、寂しさという感情は現れるのだということを学んだ。
 ――でも、人はそれに慣れていく。
 耳の近くであなたの声がし、わたしの身体が震えた。慣れていく、そんなことがあるのだろうか。あなたの言葉に抗うように、ノートに書いた。わたしは決して忘れない。この寂しさを、そして心にあなたが存在するということを。
 ふいに周囲の音が遠ざかり、目の前の椅子が引かれる音がした。顔を上げて、わたしは笑った。また、ここにあなたを描けたことに安心したのだ。あなたはグレーの襟刳りが開いたセーターを着て紺のスラックスを履いていて、ポケットに片手を入れていた。椅子に腰掛けると、わたしのほうに手を伸ばし、ノートを拾いあげた。ノートの中身を見ずに、それを宙に浮かしたまま、あなたはわたしに言った。君は無駄なことをしているよ、と。
 
 そこにいるのは僕じゃない。結局は自分が描いた想像上の僕しか、会うことができないんだよ。君が出会う僕は真実の僕ではないし、僕の本当の答えなどそこには存在しない。

 ノートを持つあなたの指がひとつひとつ離れていった。ノートは何もない空間のなかをゆっくり下降し、テーブルの角に当たって、あなたの足下にページを開いた状態で落ちた。拾わなきゃ、と思った。思ったのに、身体が動かなかった。あなたはここにいないのに、ノートが落ちることがあるのだろうか。あなたがいないのに、あなたの言葉にわたしが傷つくなんてことがあるのだろうか。――胸や喉が、塞がっているこの感覚さえも、何かの錯覚だというのだろうか。
 
 わかっていた。と、わたしはあなたに言う。もしかしたら、あなたではなく、向かいの白い壁に対してわたしの言葉は放たれたのかもしれない。わかっていた、わかっている。ひとり繰り返し、そして心のなかで呟いた。わからなかったら、良かった。
 理性がなかったら、現実を見ていなかったら、あなたが残した日記を読まなかったら、過去を過去とし、過ぎて行く日々に心まで委ねられたのなら、あなたを――救える言葉を、救い出せる答えを、探しだそうと思わなかったのなら。
「――ただ、わたしはあなたを助けたかったんです」
 締め付ける喉からやっと声を出しても、あなたの顔さえ見れなかった。言葉が出た瞬間、唇が震え、涙が溢れだし、すべての動揺を隠すため顔を手で覆った。人差し指と中指の谷間に涙が留まり、やがて手の甲に伝い腕時計を濡らした。誰かが見ている気配さえも気にならなかった。指の隙間から見えるものは、あなたのセーターと、白いマグのとってだけだった。
 ただ、わたしはあなたを助けたかった、あなたが誰かを助けようとしたように。心のなかであなたを描き、あなたと一緒にあなたが迷い込んだ森から抜け出したかった。そのために、あなたが求めていた解を、答えを、一緒に探したかった。それが、わたしのあなたに対する祈りだった。
 ――答え?
 冷ややかな笑いを含んだ、あなたの声がした。
 それから椅子が引かれ、あなたが立つ気配を感じた。わたしは怯えていた。怖れていた。あなたを怒らせてしまった、そう感じていた。あなたが席から離れると、紙がぐしゃりと擦れる音がした。暗幕が降りたように、目の裏側が黒く塗られるような感覚して、身体の奥がシンと静まり返る。手を顔から下ろすと、ノートのページに皺が寄り、あなたの靴痕が残っていた。


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