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語学の天才まで1億光年 単行本 – 2022/9/5

読んでいて楽しかったです。何が楽しかったかって、まずは著者である高野氏の破天荒ぶり。そして、多言語学習フリーク(かなりニッチだがどの世代にも必ず存在する)なら誰もが魂を揺さぶられる越境体験ストーリー。この壁をすり抜けて“あっち側に入る快感”にはある種の中毒性があり、特に言語文化的な越境は、地理的な越境に比べてはるかにインパクトが強いのです。著者はその道での最上級レベルのロールモデルと言ってよいでしょう。ただし、実際に目指す姿というより、特に大人になり過ぎた読者にとっては、自分では叶わなかった夢を代わりに体現してくれる存在なのです。

話題を言語学習にフォーカスすると、言語は使ってこそ身につくものであり、ちゃんと身につけてから使うという性質のものではないんだなと、本を読みながら強く思わされました。「目標を失うと直ちに学習意欲を失う」とは著者の言葉で、言語はあくまで道具であり、状況に応じてチューニングし続けながら使っていくものなのでしょう。確かに、そもそも言語習得に完成形はないですから、“身につけるもの”ではなく、“使っている行為自体”しか存在しないのかもしれません。

言語学習と言えば、日本人は外国語の習得が下手だと言われることがよくあります。確かに、英語に限ってみても、いわゆる学校教育はもとより、巷に英会話学校があふれ巨大産業として膨れ上がってから何十年も経過しているにもかかわらず、街行く人に英語で道を尋ねてどれだけまともなやり取りを期待できるかは怪しいのが現状でしょう。でも、なんで? 他の国でも同じなの?

以前、オランダを訪ねたときのことです。道を尋ねる必要が生じた際に、周囲に誰もいなかったので、やむを得ず近くで遊んでいる子供たちに声をかけることになりました。私はオランダ語がまったくわからないのですが、オランダ人はわりと英語を話す人が多いと聞いていたので、もしかして子供でも?と思って話しかけてみました。もちろんダメ元だったのですが、予想に反してたくさんの子供たちが集まってきて、一生懸命に英語で道案内を始めてくれるではありませんか! 複数の子供が我こそはとバラバラに話すものだから、誰の話を聞いてよいかわからなくなったほど。「おぉ、ありがとう。おかげで助かったよ」と礼を言うと散っていきましたが、最後まで残って身振り手振りを交えて英語を話してくれたのは、三輪車にまたがった5~6歳の男の子だったことを思い出します。

これが日本だったらどうでしょうか? 結論から言いうと、「オランダでは語学教育がちがうのね」という話では終わりません。日本人が一般に外国語習得が上手でないと言われる背景に、教育体系以前に、文化もしくは慣習とでも言うべき、ある独特な性質があると思っています。わかりやすい現象を引っ張り出すなら、たとえば、バイリンガルでもない日本人が外国語を話そうとすると、周囲の日本人がニヤニヤするという傾向がそのひとつの現れです。…と表現して何か少し伝わるでしょうか?

最近は、小学校でも外国語の授業があるようで、そこで英語を習ったりします。であれば、上述のオランダ・エピソードの逆体験。つまり、日本語のわからない人が困って道を尋ねてきたときはどうなるか? もし英語がわかる子がいたとして、周囲を気にせず道案内する子どもはどれだけいるでしょうか? 仮に思い切って英語で話してくれる子がいたとしても、おそらくそのあと仲間たちだけになったときに、周囲からその子がからかわれたり、冷やかされたり、少なくとも一言あるだろうことは容易に想像ができます。

そういえば、外国で活躍する日本人アスリートたちも、現地で暮らし、日々チームメイトとのコミュニケーションには非日本語を使っているはず。少なくともチームスポーツで活躍する選手なら、おそらく意思疎通できるレベルの語力はあるのでは? でも、記者会見やちょっとしたインタビューでさえ、通訳を挟まずに対応している日本人アスリートはほとんど目にすることがありません。

日本語以外で受け答えをしているのを見たことがあるのは、元サッカー選手と中田英寿さんと、NBAプロバスケットボール選手の八村累さん、あとはプロテニスプレーヤーの大坂なおみさんくらいでしょうか。そして、今でも覚えているのは、中田さんがヨーロッパでまだ現役の頃、イタリア語や英語で取材に応じている映像がたまに流れてきましたが、流れてきたニュースは話した内容よりも、外国語で話していること自体を取り上げるようなムード。「なんだかなぁ」と思ったことを記憶しています。

しつこいですが、もう一つだけ。今度は、ヨーロッパで活躍するプロサッカー選手の来日イベントです。壇上のスター選手に対し、日本の男の子が一生懸命覚えてきたポルトガル語でウエルカム挨拶するというシーンがありました。しっかり伝え終えたところで、微笑ましいという意味でしょう、周囲で見ていた大人たちが声を出して笑うという、いわば安堵のシーンです。日本の人たちにとっては特段おかしな場面ではありません。しかし、そのサッカー選手は笑っていた大人たちに向かって「なぜ笑うの? この子のポルトガル語はうまいよ」と怪訝な顔で男の子をかばおうとするのです。

このようなエピソードは実は山ほどあって紹介しきれませんが、言いたいことは、このような文化土壌では、いくら学校の語学教育に力を入れても焼け石に水。学習環境以前に、整えなければならないことがあるということです。ただ、そんなことをホザいている私も、どっぷり日本生まれの日本育ちですから、こうなってしまう社会文化事情は痛いほどよくわかります。だからなおさら、なんとかしたいなぁと思うのです。道は険しくまだかなり遠い。本書とは趣旨がかなりズレましたが、そっちの課題のほうも1億光年くらいはありそうだなぁ…。なんだか悔しいなぁ…。

(おわり)


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