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アケルマン「アメリカン・ストーリーズ」_m

毎日あついですね。消しそこなったブロックが積みあがって底が見えない、サドンデスマッチのテトリスのよな毎日ですが、まあなんとかそこそこやっていますでしょうか。あきまへんな、ぼちぼちでんな。

シャンタル・アケルマン特集上映が下高井戸シネマでもはじまったんで、「アメリカン・ストーリーズ」を見てきた。クリューガー『生きつづける』はアメリカのエリス島にたどり着いて、この自由の国では足をどちらに向けるのも自由だということに驚く、そういうところで終わるが、この映画で語られるのはその先のアメリカン・ストーリーズであり、夫をうしなった女や、妻をうしないそうな男や、信仰をとりもどした男や、ポーランド人、ユダヤ人のいろいろな印象的な語りがかたられ、ちょっとアレクシエーヴィチみたいでもあると最初思った。しかし、それらの語りは間にはさまれるいかにも演じているふうの小噺やジョークに押されていき、しだいに画面はクストリッツァの「アンダーグラウンド」風味をおびてくる。この民話ふう学芸会の連続による深い感情のたかまりは、ちょっとどくんごのお芝居とも通じるような気がするのだ。あ、遠くで雷が鳴る。

この民話的な笑いと不条理はなんなんだろう。

ということを考えていて、これまた先週見たカサヴェテス「フェイシズ」で、男や女がハイテンションで笑いつづけ、男は女にジョークを言いつづけ、それは男同士のジョーク合戦にも発展したりして可笑しいのであるが、生物学的に笑いは威嚇の薄まったものであり(威嚇は歯をむき出しにするが、その途中形態・寸止めが笑った顔だ)、怒りをてなづける手段であるという説を思い出す。

先日、仕事でお世話になったひととの打ち上げで、うつ状態のとき音楽がきけるかどうかというと自分はダメだった、という話をきいた。バラエティ番組とかもダメで、ニュースもダメで、映画を毎日2~3本見続けていたという、それも暗い映画を。

創作の原動力となるのは、なにか人並み外れた痛みであり、それを感じたことがある人は、それを感じたことがある人が作った映画の向こうに、それを感じることができる、という話だった。コメディでもサスペンスでも、あちらこちらにそうしたものがあり、そうしたものだけを見ることができた、というのだった。遠くから挨拶するみたいに。




毎週楽しみにしてたアニメ「推しの子」の更新がなくって、シーズン1は終わってしまったぽい。かなしい。しかしyoasobiによるしぬほど中毒性高いオープニングテーマが頭の中から追い出せるのはよい。チェンソーマンも終わっちゃったし、知人はスキップとローファーはほのぼのでいいよと言っていたけど、これから何を楽しみに毎週生きていけばいいの。

さいきん見た映画でいうと、いまいちだったのは「蜜蜂と遠雷」で、これは小説のほうがたぶんいいんだろうなあ。最初わかりにくい演出をするわりに(ふつうの客の注意力が途切れるレベルでフラストレーションがたまる)、登場人物たちがどんどん唐突に思わせぶり・マンガ的なセリフを吐くようになっていって、本来なら決定的カタルシスを生むべき場面のキービジュアルを最初に持ってきてしまったせいで全体がミュージックビデオふうに軽くなっている。もったいない。現代の日本映画のダメなところが出ている。お話の設計自体はとてもよい(さすが直木賞)のに残念だ。音楽は私はよくわからないがたぶんよかった。

あと、アンリ=ジョルジュ・クルーゾー「恐怖の報酬」(ぬうぅ、めちゃくちゃ面白い)と「悪魔のような女」(私には途中でネタが割れたぜ、しかし死ぬシーンの迫力と美しさがすごい)、「Uボート」を見たりした。UボートはもうぜったいにUボートに乗りたくないね。戦艦大和のつぎに乗りたくない。軍事オタクは戦争兵器に自己が装甲化し巨大化したような万能感をもったりするのだろうけど、自分はむしろ、戦争映画をみると、このようにアナログで幼稚で傷つきやすいものに生身を包まれてよく戦えるよと思う。ヴァルナラブルで震える。ゲームなのか。ゲームなのだろう。暑さで裸になって燃料庫に燃料を足していると轟音が鳴って水があふれてきて、まだ生きているのに水で船ぜんたいを沈めないために扉が閉ざされ閉じ込められる、そのときになって初めて自分が騙されていたことを知るのだ。冗談じゃない!  (m)


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