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JJ休刊するんだって。

JJ、それは私が女子大生(←この言葉ちょっとはずかしいな)だった頃、女子達のバイブルとしてカリスマ的な存在だった雑誌である。

いわゆる赤文字系雑誌として、全盛期はCanCamやViViなどとともに、20歳前後の女性達から圧倒的な支持を受けていた。

その世界観というか教え(宗教!?)を信仰し、隅から隅まで熟読していた雑誌が休刊になると知り、これはnoteに思い出を綴らねばと思った次第。

高校生の頃は、フレンチカジュアル(←この言葉も死語!?)愛好家だった私だが、世間では「お嬢様大学」と言われていた大学に入学することになり、郷に入ればなんとやら…ですっかり赤文字系雑誌に傾倒していったのが18歳の頃。

複数ある赤文字系雑誌の中でも、当時のJJは「上品」「育ちの良さ」「お嬢様」を売りにして他誌とは一線を画していた。一時期はキャンパス訪問というページがあり、JJの雰囲気にマッチした大学を紹介していたことも。私が通う大学も紹介されたのだが、学内でもかなり目立っていた美人の上級生が学生代表のような立ち位置で誌面に登場していた。

影響されやすい私は、この大学の学生らしくなるには、この雑誌の誌面のようにするべきなのだと勝手に解釈し、懸命にJJが提案するライフスタイルを真似ようとした。

しかし、田舎の兼業農家で育った私には、「母のお下がりのヴィトン」とか「家族が代々お世話になっている老舗」とか「小学校から○○学院です」なんてものにはまるで縁がなく、なんだか全方位に華やかなその世界のエッセンス(洋服や化粧品)だけを取り込んで満足していたにすぎなかった。
思い返せば、数多ある中の一つに過ぎない世界をそんなに忠実に信仰しなくても良いのではないかと思うのだが、あの大学に通う私にはそれが正義だった。(視野が狭い)

平成初期はネットもなくて、情報源はほぼ雑誌だった。
読んでいる雑誌で、生き方(←大袈裟かっ)や趣味、嗜好をアピールできた時代。
その人の服装や髪型を見れば、どんな雑誌を読んでいるか、おおよその見当がついたりしたことも…
そして、見た目だけで様々なことをジャッジされることも多かった。
そんな時代背景もあり、雑誌の真似をすることは、世の中に適応していくための術でもあった(私にとっては)

今は個人がSNSで、ファッションも生き方も発信できる時代。気軽に一次情報にアクセスできるようになり、世間的な流行よりも個人の価値観を重視する世の中に変化した。
おしゃれや楽しいことはインフルエンサーを参考にする人も多い中、ファッション誌の役割は今後さらに変化していくだろう。

もちろんプロが厳選し、発信する情報に価値があることに変わりはないが、それを使うも使わないも自由であることが、令和の時代の良さなのかもしれない。

それだけ女性のファッションもライフスタイルも多様化しているということであり、まさに時代の進化なのだから。

そういえば、あの頃JJの誌面を飾っていた読者モデルさん達が通う女子大も、21世紀に入り急速に実学志向に舵を切って行った。
文学部が看板学部だったお嬢様大学が次々と医療、看護、教育、福祉の学部を増設しキャリア教育に力を入れ始めた。
大学の生き残りと存在意義をかけて先手を打っていったのだろう。
そして21世紀は、女性もアイデンティティとなりうる職業を持つ時代となった。

かつてのJJが発信していた「有名大学で学生生活を謳歌し、有名な企業に就職後、数年すれば結婚して幸せな主婦になる」といった上級幸せすごろくの高付加価値感は薄らいでしまったのだなぁと思わずにはいられない。
上品なおしゃれをして、男性に選ばれる女性になり、素敵な奥様になる…ひと昔(もう、ふた昔か)前は誰もが「いいね!」をしたであろう生き方も今は選択肢の1つであり、絶対的な価値を持つものではなくなってしまった。

生き方が多様化した現代において、ロールモデルは自分で見つけていけるし、歩むべき道は一つではないことは幸せなのだけれども、裏を返せば自分で選びとっていかなければいけないというプレッシャーもある。

タイミング悪く、選べなかった時代と選びとっていく時代の狭間にすっぽりはまってしまった氷河期世代(←また言ってる)の私は、かつての愛読書の休刊に様々な思い出が甦り、時代の変化を感じてやまない年末を過ごしたのであった。

#JJ    #女性ファッション誌  #ライフスタイル #エッセイ #日記

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