海は苦手


 海はあまり得意じゃない。
 初めて船釣りに出たときは尋常じゃないほどに酔って、丸2日寝込んだ。
 潮風は肌や髪をべたつかせるし、ぷかぷかと浮かぶゴミが汚いから。
 淀んだ海水の中にうっかり落ちたら、二度と浮き上がってこれないような気がする。
 海が苦手だ。
 全てを飲み込んでしまうから。
 大きな波が引いた後、どろどろに汚れた地上からは、何もかも攫われてしまった。
 あの大きな震災の前に、離れ小島の知人の家に遊びに行ったことがある。
 港から船で数十分、たったそれだけなのに海の水は澄んでいてビックリするくらいきれいだった。
 海は好きじゃないはずなのに、貸し切りみたいな砂浜で、そっと足をつけたら我慢できなくなった。

 たまに釣りに行きたいなあと思うことがある。
 本格的なものじゃなくていい。
 ただ水面に釣り糸を垂らしてのんびりする時間が、自分には必要な気がして。
 1000円もしないおもちゃのようなロッドはとてもコンパクト。
 仕掛けの作り方すら知らないから、適当に重りと針をつけてえいやと投げ込むだけだ。
 ──ああ、餌をつけ忘れた。

 前に海釣りに行ったときは、にょろにょろと気味の悪いうじゃっとした虫を餌にした。
 ぐにぐにと逃げ回るそれを、針が見えなくなるように、飲み込ませるかのように刺していく。虫は暴れて、私の手を噛む。
 痛い。
 滲んだ血はじんわり赤い。針を半分以上刺されても、まだうねうね動いて生きていた。
 気持ち悪いし、痛いから、もうあの虫には触りたくない。

 餌のついていない釣り針を投げ込んで、ぼんやり水面を見つめる。
 釣れるはずなどないけれど、しばらく待ってみる。
 いくら待っても無駄なのは分かっているけれど。
 けれど、のんびりと何かを考える時間が出来たのはいいことだろう。
 ──いや、何も考えない時間、かもしれない。
 もちろん、何時間待っても釣れるわけがない。
 古びた釣り針は、水中で揺れ動くだけで、水中にいる魚たちは、それに見向きもしない。
 太公望って、3日もこんなことをしていたのか。
 暇だ。

 結論から言えば、海はそんなのんびりした釣りには向かなかった。
 絶えず押し寄せる波が水面を揺らし、じっと見つめているとなんだか身体まで揺れてくる。
 やっぱり海は、あまり得意じゃない。

 きれいに澄んだ海で足をつけたら、我慢できなくなった。
 服を脱いで海に潜る。
 あまりにきれいで、浅瀬の底まではっきり見えた。
 10年以上経ってから、大きな津波はこの島を飲み込み、知人は命を落とした。
 あのきれいだった海が今どうなっているのか、私は知らない。
 あの澄んだ海ならば、餌をつけずに糸を垂らしていても、きっと飽きなかっただろうなと思う。
 私のロッドの先、ゆらゆら揺れる糸。その先の釣り針を無視して泳ぐ魚が見えただろう。
 ぶくぶくと息を吐いて、あの海に潜ったことを思い出す。
 水中から見た空はとてもきれいで、太陽の光がまっすぐに射していた。
 くるりと回転して再び泳ぎ始めたら、水中の岩場の隙間、アメフラシが交尾していて、連れが面白がってそれを引き離した。
 怒ったアメフラシは紫色の汁を吐き出していた。
 ──いくら暇でも、アメフラシは釣れなくてもいい。


 了

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