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シリーズ「コロナ禍と認知」 その1.ソフト・ローの発動は、いじめ社会においては凶器となりうる

 新型コロナウィルス感染にまつわる様々な惨禍、いわゆる「コロナ禍」は、人や社会のあり方に結構大きなインパクトを与えました。私は病院医師(さらには新型コロナ疑い患者対応病院の)という立場もあり、この数カ月医師として、そして人としてそのインパクトを自分なりに色々感じていました。その中で、まさに「禍(わざわい)」もあればy額に人や社会を成長させるきっかけとなったものもたくさんあったと思っています。それら気づいたことをシリーズコラムで徒然に書いていこうと思います。特に、私が長年ライフワークとしている「情報・情報の認知・価値づけ・意思決定・コミュニケーション」の在り方の変化について考察していきます。順番はバラバラで、テキストとして吐き出したい部分から書いていこうと思います。第一回目は、「ソフト・ローの発動は、いじめ社会においては凶器となりうる」ことについてです。

新型コロナウィルス感染に対する対策は、国によっていろいろ異なっていました。日本では、明示されたルールや罰則を設定しない上で、国から住民や事業者個々に対する「自粛要請」という形でのメッセージが発出されました。「自粛要請」という名になっていますが、これは我が国においては「ソフト・ロー」の発動でったと私は考えます。

まずは「ソフト・ロー」の意味について。中山信弘 著「ソフトローの基礎理論」によれば「ソフトローとは,法的な強制力がないにもかかわらず,現実の経済社会において国や企業が何らかの拘束感をもって従っている規範を指す」という意味だそうです。この説明はわかりやすいですね。人が生活する社会には、いろいろなソフト・ローがあって、それによって社会の秩序は保たれています。例えば、電車の中で大声でしゃべったり臭いを発する食べ物を食べたりしてはいけない、というのは法律で明文化されていませんが社会秩序を保つうえで皆が守るべきだと考えており、実際に電車に乗るほとんどの人はそれを行動規範として守っています。もう少し緩いものだと「エスカレーターに乗るときには、右(関西)か左(関東)のどちらかに立つ」というのもそうかもしれません。たまに電車の中で大声で話している人がいると、誰かから注意を受けたり、多くの人から白い目で見られたりします。それによってソフト・ローに従っていなかった人の行動に制限がかかったりします。

「配偶者がいる者は、配偶者以外の人間と性行為をしてはいけない」というのは、今の我が国においては結構強い強制力を持ったソフト・ローだと思います。そして、この行為は「不倫」と呼ばれています。配偶者がいる者が、配偶者以外の人間と性行為をすることそのものは、どちらかというと当事者間の問題であって、そのことによって社会秩序が直接崩れる(例えば、当事者以外の多数に不利益が直接かかる)とはなかなか思えないのですが、おそらく「不倫」という言葉が持つ「倫理的な振る舞いに反した行為」というイメージがこの行動を厳しい社会的制裁が加わるソフト・ローにしている気が個人的にはします。

あまり文献を読んでいないので恐縮ですが、私のイメージでは明示化された法規範よりもソフト・ローの方が、そのローが適用される社会構成員にとっては侵襲性が高いような気がします。例えば「窃盗」について。これは明確に刑法上の犯罪行為です。ただ、たとえば私たちは映画「万引き家族」を観ながら万引きを繰り返す主人公の家族に共感したりしています。なぜならそれは、違法行為としての窃盗は「悪いこと」であることを認識した前提で、主人公の家族のことを「悪い人」とは感じていないからです。明示化されたルールにおいては、ルールを違反したものをその規範に基づいて処分することが可能ですが、一方でルール違反を行った主体の人格に踏み込まずに済む、すなわち、ルールを犯した人を嫌いにならずに済むという仕組みがあるような気がします。

ソフト・ローによる行動規範の統治は、そのあたりが危ういのではないかと私は考えています。すなわち、ソフト・ローを人が守るとき、人はそのソフト・ローに対してあらかじめ同意を求められるのではないでしょうか?ルールを犯したからといって何か明確な不利益処分があるわけではないルールを守るのだとしたら、それはそのルールを「正しいこと」と感じているだろう、と社会が認識した上でのルール、という特徴がソフト・ローにはあるのではないかを私は考えます。だからこそ、ソフト・ローはいわゆる「一般社会のモラル」のようなものと強く結びついています。そして、ソフト・ローとしてのルールは、基本的にはコミュニティから自然発生的に立ち上がってくるものなのだと解釈しています。

コロナ禍において、私たちはコミュニティからではなく政府からソフト・ローを発動され、それに従うようになんとなく仕向けられました。この「なんとなく仕向けられた」というのが重要な部分です。「自粛要請」という、なんだか矛盾している言葉(自粛は要請される筋のものなのでしょうか?)の中で、私たち日本に住む人々の行動は大きく変わりました。そして、私たちが行動を大きく変えたことそのものはとても称賛に値することだと思います。また「8割削減」のように、具体的な行動指針があったことはとてもよかったと思います。このような具体的な行動指針は、先ほど言った「行動」と「意識」を切り分けて考えるのに役立ちます。ただ、やはり政府からトップダウンで降りてきたソフト・ローには副作用がありました。そのルールを順守しない人たちは国賊に値するような雰囲気が一気に広まりました。

「自粛警察」と呼ばれる、自粛要請に十分応じていない個人や事業主に対して、その人格を否定するような現象があちこちで見られるようになりました。特徴的だったのは、「自粛警察」的に暴力的なまでに人を追い込んでいったのは、とてもまじめで思いやりがあり、利他性を重視する人だと認識されているような人たちだったのです。これは「正義感」が持つ暴力性が大変わかりやすい形で現れたものだと思います。「正義」はツッコミどころがないのです。そして、突然上から降りてきて、しかも政府のお墨付きまでついているソフト・ローは、正義の味方を自覚するものにとって、行動規範を破った人間を「悪人」に仕立て上げる仕組みとしては最適なものでした。共通の敵がいて、その敵の脅威をコミュニティ一人一人が脅威と感じ、さらにそこに時間的余裕がないとき、その敵を駆逐することをもって「正義」とすることは、大衆の共通意識を結束させる最適な環境です。過去の多くのファシズムは、その環境が整ったときに台頭しました。

パンデミックの第一波が落ち着き、政府は新たに「新しい生活様式」とネーミングされたソフト・ローが発動されました。ソフト・ローの内容は正しく、内容自体には文句のつけようがありません。この流れによって、人の「行動」と「意識・価値観」を分別して判断することをこの国の人々がどんどん放棄してしまうようにならないだろうか、という何とも言えない気持ち悪さを私は感じています。それはあたかも、そのバックグラウンドや個別の事情を鑑みず、配偶者がいる状況で配偶者以外の人と性行為を行った人を「不倫」という言葉で十羽一絡げに人格否定するようなことと地続きです。私は「いじめ社会」とは、「みんな同じでいなければいけない、私とあなたは同じことを考えて、同じふるまいをしなければならない」ということを強要される社会だと思います。残念ながらこの東アジアの島国が持つカルチャーはその傾向が実に強いです。そして、ソフト・ロー、さらには国家の意志を背景に持っているソフト・ローとこの「いじめ社会」は実に親和性が高いのです。

たぶん私は「新しい生活様式」に準じた生活様式を続けるつもりです。そこに書かれている内容そのものは十分に賛同できるものですから。ただ、私はこれにとても賛同できないと考える人がたくさんいてもいいし、いるべきだと思います。変えるのは行動だけで、意識や価値観までマジョリティの言いなりになるのはゴメンです。

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