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シリーズ「コロナ禍と認知」その2: 恐れや不安などの感情を他者に表象しようとするとき、それらは「真実と、真実に基づいた正論」という表現型に変換される

コロナ禍は「インフォデミック」とも呼ばれた事象でもありました。私も、この言葉は今回初めて耳にした言葉ですが、うまいこというなあと思いました。Weblioによれば、「インフォデミック」という言葉は「ウェブ(とりわけソーシャルメディア)上で真偽不明の情報や虚偽の情報(フェイクニュース)が流布し、これを多くの人が真に受けてパニック状態となり、社会の動揺が引き起こされること」という意味だそうです。本当にテレビあるいはネットニュースで流れた様々なテキストをどれだけの人々が「真に受けて」いたかは定かではありませんが、社会全体が情報の氾濫によって一種のパニック状態になっていたことはその通りかと思います。

今回のインフォデミックの特徴として、とてもスピーディに情報がさらなる情報を生んでいったということが挙げられると思います。そして、情報の主人公は「どうやら真実はOOOのようだ」という不確かさを幾分含んだ「真実」に関する情報でした。その言い回しが断定的であったとしても、受け取る側はそれをある程度の不確かさとともに受け取っていました。人が初めて遭遇する「真実」に関する情報が社会に与えるインパクトというのはとても大きなものだったと感じました。そして、その「真実」は、ただ単に人類が遭遇する初めてのことに関する「真実」であるだけではなく、それがそのまま一人一人の極端に言うと生死にかかわる「真実」情報であったわけです。個人が恐れと不安を増大させるうえではこれ以上の条件はないかもしれません。

「情報がさらなる情報を生んでいった」からくりについて考察します。まず、「どうやら真実はOOOのようだ」というニュースがドロップされます。そのニュースにいくつもフォローのやはり「真実」に関する情報が新たに生まれます。もれなく生まれる情報はまず「それに似たこんな『真実』もある」というニュースであり、もう一つは「それは『真実』ではない。こっちが『真実』だ」というニュースです。私がある意味属している医師のトライヴの中でも、YAHOO!ニュースで流れる「PCR検査をもっと大量に行わなければならない理由」という「真実」を見た(医学の目線において)誠実な医療者が、「それは『真実』ではない。『真実』は、こうなのだ」というメッセージをたくさん発信していました。

さて、さっきからなぜ私が「真実」についてカッコつきで記しているかというと、まず一つは「真実」はほとんどの場合真実ではないからです。先ほど紹介した、疫学に少し詳しい医療者が発信する「検査が陰性だったとしても陽性だったとしても、その検査後確率はこれくらいである。だからこのニュースが発信している『真実』は間違っている」というメッセージは、おそらく「真実」ではあるのですが、やはりかぎカッコつきの「真実」なのです。

もう一つの理由は、今回のインフォデミックの主人公はやはり「真実」あるいは「真実に基づく正論」に関するニュースであって、認識や感情に関するニュースではなかったと私が考えているからです。多くの人たちは、この度のコロナ禍において、恐れを感じ不安を感じていたのだと思います。恐れや不安の内容は様々かもしれません。「死んだらどうしよう」とか「差別されたらどうしよう」とか「人に迷惑を掛けたらどうしよう」とか、いろいろだと思います。ただ、それらのリアルな認識や感情は「真実」あるいは「真実に基づく正論」に関するメッセージの空中戦にかき消されていた気がします。ほとんどの場合、それらの「真実」あるいは「真実に基づく正論」に関するメッセージは、個人個人の認識や感情のは生物として生まれたものであるにも関わらずです。やはり、影響を及ぼす単位がマクロになってくればなるほど、個人の認識や感情を表象することは、「真実」の発信に比較してあまり説得力がないことのように我々は考えてしまうのかもしれません。

なんだか「真実」に関する情報が出回ることが悪いことみたいな書きっぷりになってしまいましたが、私はそうは全く思っていません。むしろ「これが真実だ」という強い認識を持っている人 --特に専門家-- が、「真実」に関するニュースをきっちり伝えることがこのような状況では最も大切なメッセージだと思います。ただ、それでもやはり「怖い」「心配だ」「あの人嫌い」、あるいは「イライラする」「ちゃんということをきいてほしい」という主観を切り取って、「真実」の空中戦が展開されると、どうしても人は「その『真実』は『真実』なのか?」という問いにコミットするようになってきます。

翻って、ここでわたしたち人間が今回のコロナ禍で持った「怖れと不安」について考えてみましょう。私たちは確かに、大勢で大きな不安を生み出しました。人はなぜ不安になるのでしょうか?いくつかの本によればそれは「人は自身の未来の予測とともに現在を生きているから」だそうです [1]。そして、現在の自分と予測される未来の自分との間の連続性が小さければ小さいほど人は不安になるようです。わたしもこの説明に賛成します。確かに、それが実際時間的にどれほど遠い未来かにかかわらず、私たちは予測される未来の自分がはっきりしないとき、その姿を受け入れることができないとき、今の自分が未来の自分に向かっていく道のりを明確にイメージできないときに強い不安に襲われます。

そのようなときに、湧き上がる不安への対処として人はどのような行動をとるでしょうか?特にその不安が、比較的時間的に近い未来の自分を対象としていたり、他に比較するようなものがないはじめての事象(これはコロナ禍を想定しています)に対する対処についてです。もっとも魅力的な誘惑は「もしこのような条件がそろえば自分の近未来は変わらない」という条件を作り出し、それに十分な正当性を持たせることなのだと思います。すなわち、不確定な物語事象が紛れ込みにくい近未来については、その「If/Then」構文さえ成立させれば自分は今と近未来との間に安心の直線を描くことができる、とすることは実に魅惑的です。

ここに「感情を情報化する」という所作が生まれるのかもしれません。「1週間後の自分がどうなっているか見えにくい。想像はできるが、今の自分と未来の自分との間に糸を通すことができない」ということで沸き上がる恐れや不安をそのまま表出する代わりに「ここにこのような『真実』がある。そしてこれは確かに『真実』なのだ。この『真実』に寄り添うことで、自分は未来の自分と連続的関係を確保することができる」というロジックなのかと考えます。

もし人間がこのような認識の転換を、自らの不安を手なずける上で無意識に持っているものなのだとしたら、それはよい特性でもあれば危うさもあるかと思います。常に否定されるものではないでしょう。では、どのようにこの認識転換システムを自らや社会の幸せのために使っていけばよいのでしょうか?それを長い宿題としてみたいと思います。

[1] 鈴木祐 最高の体調 ACTIVE HEALTH. 2018

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