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聖人君子は欲深い


昨日は久しぶりに交通事故の事で他人に不満をぶつけてしまい眠れない夜を過ごした。

しかし、なんだ、この気分の落ち込みは?

自分が人に嫌に事を言われて傷つくより、人に文句を言った後の方が心の霧が晴れない。本当に久しぶりに人に不満を言ってしまった。

多分、3年ぶりに他人へ直接不満を言ったと思う。


それは3年前の暑い夏の炎天下の中だった。俺は借金の完済書を受け取るのに、多分朝の10時頃に連絡して、夜の9時ぐらいまで相手が家から出てくるのを車の中で待ってた。その待ってる途中で相手にLINEで文章を送った。 


「すいません、いつ頃になりそうですか?朝から待ってるのですが…」


これが3年前の最後の他人への直接の不満の文章だ。

なんだこの情けないLINEは?

まるで怪しい店で人気な女の子の予約待ちをしてるモテない男みたいな文章じゃないか!

なんと情けない…

その人に長年いいようにコキ使われ、その人と離れる最後の日に、その人からされた俺に対しての最後の扱いがこれだ。10時間以上待たされた。朝から夜まで、ずっと暑い中、車の中で待った。

 
そして相手の遅れた理由は「家の掃除をしてた」だった。

そもそも、その借金と言われるお金も俺がその人の生活を助けようとして渡そうとしたお金だった。しかし、そのまま渡そうとすると謎に嫌がるので、バイト代という名目で渡してたのだが、俺が自分に無理して渡してた結果、俺の方が経済的に苦しくなり途中でお金を渡せなくなったのだ。

そうすると、なんと彼女はそれを自分への借金として扱うようになり、それが積もりに積もった結果、数百万という彼女への借金となったのだ。

まるでヘビが自分の尻尾を食べてるかのような借金なのに、俺はそれに責任を感じて長年相手の言いなりになってしまった。

10のうち10はおかしいと思ってても、その中の1つの「あなたの借金」という言葉だけに俺は強く責任を感じてしまい、他の事は強く抗議出来なかった。

こうやって後から思い出して文章では疑問を唱えることは出来るが、当時は直接本人には言えなかった。

それより先にお金をなんとかしないと!という気持ちの方が強かったのである。

しかし、向こうは俺みたいな甘ちゃんではなく、自分の利益になる事は容赦なく俺に請求した。そこに一切の妥協などなかった。

俺はおかしいと強く抗議も出来ず、親にも迷惑をかけた末に無一文となった。


しかし、昨日の夜の寝付きの悪さを考えると、俺が人と本気で争って相手からお金を奪うような展開になったとしたら、俺は精神的に普通に暮らせるのか?と思った。

決して俺が聖人君子だと言いたいわけではない。

しかし、人が少しでも不幸になるのを知りながら、自分だけが得になることをしようとすると、昨日のように胸が痛くなるのだ。

俺が詐欺なんかしたら、毎日どれほどの罪悪感に陥るのだ?

こんなに心が弱いとは思わなかった。

自分が嘘をついたりしたら、自分自身が一番分かってるわけだから、それを隠しながら人を騙し続けて、自分だけが利益を得る詐欺なんて、とても出来そうもない。

毎日毎日、胸が苦しくて、生きた心地がしないだろう。

しかし、集団の中で生きようとすると、自分の利益を強く主張する力がないと確実に自分が損してしまうのは十分に分かる。

でも、それが俺に出来るとは思えないから、結局は自分だけが我慢する人生が続くのだろうな。

聖人君子とは徳が高く人格高潔で、生き方において人の模範となるような人物だそうだが、俺なんかは中途半端で何者にもなれない。

こうやって、過去の不満を書くような人間が聖人君子などになれるはずもなし、ならば今後どう生きるのがいいのか?

自分の利益の為に徹底することも出来ず、かと言って他人の為にこの身全てを捧げる覚悟も持てず、ちょっと他人に不満をぶつけたら悪いことしたなぁと落ち込む中途半端な人間だ。

それならば悪人に振り切れればいいが、俺には悪い方の武勇伝はない。

でも、無理矢理に俺が悪を語るなら、

「俺も昔はワルだったからなぁ、両親が留守の時に母親が隠してる小銭が入った財布からゲームを買うためにちょっとづつ小銭を抜いてた時があった。あの時は、いつサツにパクられるかとヒヤヒヤもんだったぜ」

とか、

「俺がまだ近所から挙動不審のジョージと恐れられてた時、ばぁちゃんが俺が食べ過ぎないようにと隠してたポテトチップスを探し出して、何回も盗んで食べたっけ。これは刑法第235条の窃盗罪だから、10年以下の懲役又は50万以下の罰金か…とにかく昔は悪かったよ」

などと、悪いことも、しょうもない事ばかりしかやってない。

とにかく、ぼんやりとだが、どちらかの人生を選ぶしかない。

自分が損しても人に優しさを貫く聖人君子路線か、自分の利益を第一に考えて行動するごくごく一般的な利己的な人間か。

まぁ、どう考えても人に感謝され、死んだ後も人から惜しまれるのは聖人君子だろうから、俺も聖人君子を目指すしかないな。

でも、どうせ死んだら、すぐに忘れられて近い人間にしか思い出されなくなる。ならば、自分のためだけの利己的な人間でいいではないか。死んだ後に何言われようが関係ない。

ボロカス言われても自分の欲望のまま生きて死んだ方が結局は幸せな人生だ。

いや、まてよ?死んだ後ぐらい惜しまれる人間でいたい。

それには、生前から人に優しくして、高潔な人格を目指し、そして道徳的な人生を歩まねばならん。

生きてる時も、そして死んだ後さえ、人に愛され惜しまれる聖人君子を俺は目指す!

と、こんな風に死んだ後の評価さえ欲深く考える俺は聖人君子には程遠いのは間違いない。

死んだ後さえ人に惜しまれ忘れられないようにする人への優しさなんてエゴでしかない。

自分に戻ってこない優しさだとしても、それでも人に与えるだけの人生でなければ、とても聖人君子なんてなれるわけがない。


しかし、それでも、俺がいなくなった時に惜しんでほしいから、俺の文章を読んでくれる人や身近の人に、俺の出来る感謝と誠意を届けようと思ってる。


これが、俺の思う欲にまみれた聖人君子への第一歩だ。

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