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後悔とそうでないことの連続(気持ちの整理のための、父の生と死とその周辺の記録/「芽球性形質細胞様樹状細胞腫瘍」BPDCNの経過含)


七夕に父は空に昇って行った。山登りが好きだったから登ったという方がより近いのかもしれない。🎋🌌⛰️
2024年7月7日(日)14時53分に東西線の電車内で東海大学附属病院から5分くらい前に父の心肺が停止したとの連絡を受けた。危ない状態だったら私にも連絡をくれるように前日に医師との面談で伝え、看護師にも電話番号を伝えた。だが、危ないではなく、もう父の人生の終止符が打たれた後に連絡を受けた。14時くらいには奥さんの方には脈の乱れの連絡がいっていた。「もう、復活はないということですか?」と木場の美術館に向かう途中、おそらく大手町駅〜茅場町駅のホームに降りて喧騒の中、何とか話を聞き取った。もう戻らないのかと諦めて、現地まで2時間半はかかるし、VRの予約及びその日までの企画展のチケットを持っていたのでイマイチ実感が湧かないまま、しかし、嗚咽も交えて美術館に向かった。天候が思い出せない。今思うと狂気だなとも自分でも思う。美術館での作品の言葉は思い出せるところが少ない。ただ、私の心のどこかに残っていることを願う。何事も無駄だったと思いたくない。

20時まで父の身体を清めて病室で待っててくれるとのことだったが、現実はそうではなく、死亡確認後30分で葬儀会社を決めるように奥さんは言われ、病室からも急いで撤退したようだった。以前から、何かできることがあったら何でも言って下さいねと言う度に息子達がいるから大丈夫と言われ、具体的な病室の連絡が突然来たのも亡くなる1ヶ月を切っていた。何もかも、自分の手で納めたいように思ってしまって、きっと息子たちを呼んで手続きなどを終わらせるのだろうと思った。

前日、父が危篤状態だと言うのに、医師の話を2人で聞くという前に、私にメール送っても送れないんだけどと言われ、何のこと?今までLINEでやり取りしてたのにと思ったら、父と籍を入れた時からの父が入れたお金がこれだけで、そこから父がどれくらいの金額を使ってということが事細かに書かれたものだった。かなり入れているように見えるが、それでは足りないとのこと。その場では読まず、自宅に帰ってから読んだら、怒りが湧いてきてしまい何を意図しているのかと思ったが答えは一つだなと思い、遺産のことを懸念してのことでしょうか?と返信した。そして、父から生前に言われていた内容を引用して送った。父とは私の3〜5倍は時間を共有しているであろう人、私には父の心配する時間もくれないのかと憤りと唖然で父の方に集中できなくなってしまった。2人とも旅行三昧の日々だったから、私は父に謳歌して欲しかったのでなるべく迷惑をかけまいと思い、こちらからの連絡は控えていた。
一緒に暮らしていた時も、父は仕事人間だったから私が寝た後に帰宅する毎日だった。土日はパチンコでほぼ家にいなかった。
後の説明では、母との関係が良くなかったからだそうだ。3人で出かけるとしても、無口で出かける寺社巡りが主だった。

前置きが長くなったが、危篤状態の中で送られた(結局、送り方が分からないというので奥さんの携帯にアドレスを打ち込んで、自分で自分の今のメアドに送ったのだが…)相続に関するメールには憤りと悲しみが交差した状況だった。父はもう戻らないし前日に冷たくなった父の足を私の体温で1時間弱温めて、ありがとうを言えて、この1年半喧嘩をしたから、それもごめんねと伝えた。大丈夫だよと言ってくれた。都知事選の前日だったから、新宿を経由して帰るから蓮舫の最後の演説を聞いて帰る、小池どっか行けよ!と言ったら、どっか行くよと言ってくれた。それまで、帰るねというと「大丈夫」としか言わなかった父。父はどこにも行かないでねと泣きながら言った。都民じゃないよね?とそのやり取りを見ていた奥さんには言われたけれど…分かってないな!と思った。(自分や兄弟は大手に就職してなど、度々マウントをとってくる人…。時代が違うんだよと言いたい)だから、もう思い残すことはほぼなかった。
大丈夫の他には、法律が文書を見張っていて、そういうことを回避、回避するというようなことを一生懸命にゆっくり奥さんと私の前で言っていたのは何だったのだろう。メールのやり取りを父はどこかで勘づいていたのだろうか…不思議で仕方ない。父は生前、私に渡せる額はこれだけと具体的な数字を言っていたが、それは奥さんから了承を得ている額でと言っていた。だから、子である私はもっともらえるのかもしれないが父の言う通りにしようと思う。父も奥さんの性格やバックグラウンドを知っての奥さんへの配慮なのかもな。あの父が凄く気を遣っていたのには驚いた。母には威張っているところしか見ていなかったから。娘の幸せを祈っていると言いながら…欲は捨てなければならない。だったら音大に行ける経済力があったのだから行かせておけば良かったのにね〜とまだ怒りは残っている。本当に人間ができていない。こんな気持ちの整理の文章を打っている間に練習すると言う選択肢がない。才能もない。しかし、この工程は大切だ。

正月に父の家に行って直接の喧嘩の後、和解はしていて、今年の1月に私の家まで送ってくれて別れ際にハグをした。だから、心肺停止の連絡をもらった時はもう出来ることはない、思い残すことはないと思った。この喧嘩の過程がなければ今、私は後悔の渦に巻かれたまま前に進めずにいただろう。

父は学生運動で何度か投獄されている。ホー・ツーニェンのVRを命日の前週に観たが、職員の説明がなかったため、その投獄の場面を逃してしまった。私は、少しでもあのリアルな映像の中で投獄をされるという体験をしてみたかった。もう、それしか頭になかった。だから、届くはずがないその旨のメッセージを泣きながら父のLINEに送って美術館に向かった。(美術館にはメールしてもう一度観させてもらえないかネゴしたところ、最終日の最終回なら調整して下さるとのことだった)もう一つの「翻訳できない わたしの言葉」のチケットも持っていたので見なかったら後悔する。どっちにしても後悔するとは分かっていた。父の御臨終の姿、まだ生温かいかもしれないその体温を確かめに行った方が良かったのかもしれない。今となっては美術館を選んで良かったのかと思う。文面での何万文字という殴り合いの喧嘩の中、(文面で殴り続けたのは私の方)父は私の幸せを願っていると言ってくれていたから、私はこれからの人生を模索している中で美術館を選んで良かったと思いたい。だが、父の元に飛んでいけば良かったという思いもある。それはまた違った異なる時間と体験だっただろうから何とも言えない。全部後悔とも言える。人生選択の連続だと最近思う。若い頃から選択の重要性を軽んじてきた。それは、生きる希望を恐らく幼少期から何となく失っていたからだ。母から浴びる絶望の言葉の嵐。家庭での出来事が私をそうさせた。音楽をやっている時だけが生だった。その道を親によって閉ざされた、挑戦を禁じられた。また、こんなことを書くと元に戻ってしまうのでやめておく。

7/6(土)重篤状態だったが、話はゆっくりだができた。耳の聞こえはとても良かった。父の奥さんによる死亡確認時間、午後4時8分。4月8日はお釈迦様が生まれた日。信心深い父だったので、私のこじつけだが無限にある数の組み合わせの中で偶然とは思えない。
そして、憎んで別れた母の名前が父の戒名に入ったこと。しかも、戒名の父の俗名の一文字下に母の名がついたのだ。これにはびっくりしたが、これを書いている間に母から連絡が来たから、思わず言ってしまった。そうしたら、母の文字はよく戒名に使われる字だから偶然だと冷静に言われた。その中で、私の名前を何十年振りに呼んだものだから、またびっくりして、私も母の名前を言った後に、母ちゃんもねと言い泣きそうになった。

死後直後に葬儀やらの手続きが始まることは祖母の死を高校時代に見ているので、なんとなく覚えている。今回、父は詳細なエンデングノートを奥さんに用意してくれた。そのノートを危篤状態の後にも読まずに、指定されている葬儀会社を間違えた。慌てていて持ってこなかったと言っていたが、その大事な儀式の流れに目を通しておくこともせず、私に事細かに父が入れ、使った金額の方を重要視されたこと。葬儀の手続きの申込書を書けなくなったこと。従兄弟への連絡は全部私がした事に対して、従兄弟から小切手?を受け取るまでありがとうと言わなかったこと。これから警戒しなければならないと思っている。金が全てなのか?

【「芽球性形質細胞様樹状細胞腫瘍」BPDCNの経過】
2023/1/2
父から癌を告げられる。
「芽球性形質細胞様樹状細胞腫瘍」BPDCN(2024/7/6に教えてもらった病名)
お腹や太腿の柔らかい部分に斑点が出ていることに気づき、2022/11頃、近所の皮膚科を受診。糖尿病の副作用と誤診され、塗り薬を塗布するも悪化するばかり。
別な皮膚科に行ったら、すぐに大学病院に行くように促され紹介状を書いてもらい東海大附属病院へ。稀な癌。

・この癌は、皮膚に好発するのが特徴で高齢者、男性に特によくみられる。
・大学病院でなければなかなか診断がつかないので、病名が付くまでに時間がかかる。

治験開始 入院2023/1/29仮退院2023/4/7(再入院2024/2/16)
治験終了2023/10/23
※はじめは驚くほどよく効いていた。薬はいずれ耐性ができてしまうというのが宿命で治験終了となった。

2024/2/16
再入院

2024/3/1
骨髄移植

2024/4/26
退院(早すぎた?とも思うが医師は最後に、ここで退院できなければ一度も退院できなかったとのこと)

2024/5/8
緊急入院(動きすぎて白血球、赤血球が激減。庭の手入れや入院時の道具の片付け、ドキュメンタリー映画を何時間も観たとか)

2024/6/10
初めての面会(面会10分だったところ、泣いていたので30分以上いさせてくれた)GVHDが酷く、簡易トイレで下していた。父のお尻の皮膚が爛れていた。

2024/6/22
2度目の面会(奥さんが携帯をいじって、前日からさだまさしが流れていて眠れなかったとのことでご立腹。Spotifyをアンインストールしたり、LINEの電話で聞こえるかどうかの確認を何度も何度もした…。身体は元気だと感じ、呆けてきたのかと心配していたが、感染症は進行していた)

2024/7/6
3度目の面会及び医師の説明。(医師の説明。ガン細胞は消滅した。ドナーさんの細菌をやっつけるため、免疫抑制剤を投与。高齢だと免疫抑制剤が効きすぎてしまい、患者の免疫も殺してしまう。調整して、免疫抑制剤を減らしていた為、通常0の数値が30くらいの感染で肝臓、腎臓が機能しなくなってきている。数値10を超えると危ないとされている。骨髄不全で骨髄が空っぽの状況。そうなると、白血球が増えない。もし、若い人であればもう一度骨髄移植も考えられるが、74歳では到底無理。タンパク質が作れないから血管に水分がいかず、上半身が水脹れ。ケロイドのような見た目で皮膚がめくれそうだった。足はほっそりとしていて、皮膚は綺麗だった。黄疸がではじめ2日目くらい)

2024/7/7
昼食も少し食べられていたが、14時頃、脈拍が乱れはじめ、15時前に心肺停止となる。
水分が圧迫して心臓に負担がいったのかと推測する。

最初で最後に命日の前日に医師から説明を聞いた。
夫婦では医師から2023/1頃今後の治療方法などの説明を受けていた。
外部には情報漏洩してはいけないということから、私には説明がなかった。肉親だというのにという思いが残る。

2023/1/22に私の従兄弟がお墓の管理者になっているので、父、奥さん、奥さんの長男、次男、従兄弟、私で食事をして、今後のお墓の流れなどを父から従兄弟に依頼した。その後、全員でお墓参りをした。その時点で、父の顔には癌の影響で痣が大きく現れていた。

2023/5/7はBBQを父宅で主催。父とは直接的なコミュニケーションがほぼなかったので当日気乗りせず、大雨であったことから私は体調不良ということで行かなかった。
その日、けいしさんの弾き語りライブに上野まで行き、その後、大学時代の友人と会って、父と娘の関係について話をした。
その帰りに父より、BBQで従兄弟の長男と次男が面白かったという内容が書かれていたのに対し、今までの憤りが爆発してしまった。
今までコミュニケーションがなかった分、父のことを教えてほしいと伝えた。
その数日後に父の生い立ち、祖父母の生い立ちも含め、学生運動、母との関係など13000文字以上に渡る手紙が送られてきた。
仕事後、国際フォーラム前のベンチで一時間半かけてじっくりと読んだ。
読んだだけでは気持ちが収まらないどころか、私の進路について驚愕の事実が書かれていたので疑問を全て投げつけた。
父は闘病の中、きっちり返信してくれた。私の幼少期から母との間で起こっていたことを、最後の方ではその時に知ったとのことで言葉がないとなったが。
しかし、今年の正月に家に行った時にはまだ怒りが収まらず、泣きながら行った。
奥さんから、何歳だと思ってるのよ!と言われ、なかなか音大なんて行ける人なんていないと言われた。
そう、行ける経済力だと知っての上での憤りなので、そういう問題ではなく、子の幸せを思っているのであれば、挑戦させてくれなかったというところに論点はあるのだが、なかなか他人には理解されない。理解してほしいとも今では思わない。
父は、不二子ヘミングの例があるのだからと楽観的だ。音楽教師の母の元に生まれ、藝大卒の人物を例に挙げるだなんて、やっぱり分かってないし、自分の人生が第一なんだと思った。人間そうあるべきとも思うのでもう責めたりしない。
超氷河期に当たってしまったので、就職も難しいし、自分のやりたい事をやることが私の時代に合った生き方だった。
人生を親に決められてしまった。派遣貧乏。その中でどう生きていくかを模索していかなければならない。おかげで壮大な問題を改善する大量の時間が奪われる。この考え方を好機に転換しなければならない。

父は知識人だ。だが、コミュニケーションが下手なんだと感じる。楽な方へ逃げる。合わないと思った相手とは向き合わない。
旅行先からはほぼ毎回葉書を送ってきてくれた。一番のコミュニケーションツールだったとも思える。
たまに、連絡をせざるを得ない時はほぼ旅行中で、実は旅行中で…と返信してきたので罪悪感があったのだろう。
40カ国弱を旅して幸せな人生だったと思える。
治験の間も旅行に行けたようだ。
最高の再婚相手を見つけて良かったと心から思える。
父が幸せであれば私はこの上なく幸せだと、本当に嬉しかったので涙ながらそう正月に伝えた。
こっそり奥さんと写っている写真を見たが、本当に良い笑顔をしていた。

父は最後まで生きる希望を持っていた。
最後まで病室ではフランス語の勉強、世界史の本を読んでいた。
三島由紀夫が愛読書だった。
だから、棺の中にその2冊を入れたようだ。
私は納棺前に急いで手紙を書いたので手紙だけ入れた。

7/11(木)
家族葬
16時から納棺
18時からお通夜

前日まで仕事の調整で22時まで働いてしまったので父への手紙はこの日の朝に急いで書いた。
棺の中に私が入れたのは4枚に渡る手紙のみ。
ゆったりと書けなかったのが心残りだが、あれだけ喧嘩して和解した仲なので父には思いは伝わっているだろう。
きっと、この工程も自分の心の整理であり、父が手紙を読むことはないだろうと思っている。
私は現実的な人間だ。

納棺を初めて体験した。
15時半くらいにホールに到着した。
命日には、結局霊安所では会えなく(間違って乗り換えをせずに藤沢まで行ってしまった。大失態)ホールで会ったのだが、とても穏やかな顔をしていた。(この日、美術館を出た後、父に話に行こうと計画していて、一度だけ父と2人で旅行をした、大雨の伊豆で買ってもらった黒船の団扇を持っていた。まさか、魂が抜けた肉体に葬儀が行われるホールで会うことになるとは思ってもいなかった。その肉体に、「伊豆で買った団扇もって病院に話に行こうと思ったのに、早すぎるよ!」とそこで死後初対面の再開、号泣をした。昨日までしっかりと耳が聞こえていたのに)

私は写真に収めておきたい症候群。父の死後の顔も今見れる。きっと、頭の中だけに収めておいた方が良いのだろうが。
この日、再会した父は少し苦しそうな顔をしていて、閉じていた口も歯が少し見えていた。日に日に表情が変化するのだなと、数日ぶりの変化と再会に一人で嗚咽した。あの時間とても大切だったなと思う。

16時開始だが喪主とその長男がいない…納棺師(おくりびとを今一度観たくなった)の方に聞いたら揃っていないから始まらないとのこと。
4人中2人しか時間が過ぎてもいなかった。
こんな大事な時に…。
1月の食事会の時に6分遅れて険悪なムードになったが、今日は納棺だ。
告別式の明日は1時間前には到着しているようにと納棺師から喪主が注意を受けていた。
ふくらはぎに白い布を紐で結びつけるのだが、一人で持ち上げていた状況だったので重さに耐えられず、水脹れが破裂して右腕がぐしゃぐしゃになった。
生々しいが、匂いを嗅いだけれどもそれほど匂いがしなかったので、ほぼ水分だったのだろう。体液も漏れていたので少し驚いたが父のそういう姿も見れて良かった。
4人で父が眠っている布を持ち上げ、棺に納める時は凄く重くて、次の日には右手首が痛くなった。嬉しい痛みでもあった。

17時半頃、棺の中で眠っている父の顔を見ていたら、お坊さんが気まずそうに、お線香あげさせてほしいとのことだった。
父の切望していた真言宗のお坊さん。
その後、まだ父の顔を見ていたら、従兄弟が現れた。立派なお花を贈ってくれた。
今回調べて分かったことだが、実の父だが、別で住んでいる場合は香典が必要と書いてあったので喪主に香典を渡すも突き返される。
だが、控え室のテーブルに置いておいた。そうしたら長男も横に置き、最終的には持って行ったようだった。

お通夜中は父の遺影が光で反射して見えなかったが、ひたすらその光を見て涙を流していた。
お父さん、お父さん、お父さん、何故…とひたすらやり場のない気持ちが出現していた。
アジカンの生者のマーチのMVが脳裏に現れ、明日が怖くなった。
お坊さんがお経を唱えた後、戒名の説明をしてくれて、前日奥さんと30分くらい生前のことを聞いて、山登りが好きで奥さんとも山のサークルで出会ったことから岳という文字を入れてくれた。それは、広い範囲の山を意味するらしい。そして、私たちを上から照らしてくれるようにということから、照という文字。
明日は、お別れではなく、行ってらっしゃいと言ってあげてくださいと。

皆で食事をして帰った。誰も車で送っていくという言葉がなかったので、ここの最寄駅はどこか尋ねたところ、従兄弟が送っていくよと言ってくれて、慌てて奥さんが送っていくと言ってくれた。次男は私の3つくらい上だが奥さんにベッタリだ。父は次男を凄くマザコンだと言っていたが、母親にも問題があるな…と思った。
長男と次男が話しているところをほぼ見ていない。ここも複雑な家庭だ。

次の日、父と奥さんの家に行ったら祭壇に香典が2束に分かれて置かれていたが、長男と次男の香典が一番上に置いてあった。
肉親である私の香典が一番上にきていなかった、そういことだよね…とそこでまだ悲しいというか唖然としてしまった。父の骨と遺影の前で。
実の息子が一番に可愛いに決まっているが、ここだけは形でもいいから、父と血の繋がりのある娘のを上に置いて欲しかったなと。いいんだけど。

7/12(金)
安かったから本厚木のホテルに泊まって、ホールまで。
まさかの座間ー海老名間で人身事故。
小田急線、飛び込みやすそうだもんな…東上線然り。
だが、なんとか数分後に電車が来て良かった。
大雨の中1時間前にホールに到着。
また、父の顔を見ていたらお坊さんが現れ、号泣しながらよろしくお願いします。と伝えた。
父の表情は日に日に変化する。

今日で肉体とのお別れか…。この2日間、某野々村議員のような泣きっぷりでどうしようもなかった。
棺の中にお花を入れるときも泣いていた。
告別式中、繰り上げ初七日のときも泣いていた。
ホールを出るときも泣いていた。
霊柩車の助手席で父の位牌を持って泣いていた。
父の柩が火葬されるときも鐘の音が鳴る中泣いていた。
父の棺に花や思い出の品を入れ終わった後、一人一人言葉をかける。
生前、父のことをお父さんと呼べず、小さい頃から父ちゃんと呼んでいた。最近では父ちゃんとも呼べず父と呼んでいた。父と病室で言った時、誰が?と父に聞き返されたので、父ちゃんが!とそこで久々に父ちゃんと呼べたことを思い出す。それが2回目の面会のとき。さだまさし事件の時だ。

最後の言葉では自分でも驚いた。
「お父さん!!色々あったけど、最後の方文面で沢山コミュニケーションとってくれてありがとう!ダメな娘でごめんなさい!最後まで生きる希望を持ってくれてありがとう!本当にありがとうございました!お婆ちゃんたちのところで幸せに暮らしてね!行ってらっしゃい!」
というような言葉だったと思う。嗚咽しているから、大きな声を出さないと言葉にならない。人の目なんてどうでも良かった。
やっと、最後の最後にお父さんと思いっきり言えた自分に今でもびっくりする。
この場面を思い出すと今でも涙が出るが、スッとこれらの言葉が出てきて良かった。思っていたことが素直に言葉になった。

火葬の間は皆で食事。父の笑顔の遺影に見守られていた。
料理が何種類もあって、テーブルの上がいっぱいだったから、他の人のものを食べちゃいそうですね…という言葉に笑ってくれた。
お骨となった父と再会。
私の悪癖、記録に残すこと。骨を撮ったらやめてくださいと係の人に止められた。撮った後だけど。
父の骨はしっかり、どっしりしていて、歯は滅多に残らないようだが、3本ほど原型を留めていた。
その歯をじっくり観察した。できれば欲しかった。
足の関節もしっかりしてますね、と骨の大きな部分を一つずつ説明してくれる。
一つの骨を落としてしまって、申し訳ありませんでしたと。
あのような仕事、私にはとてもできないなと思った。きっと、心のある人でなければできないと思った。それとも、心のない人の方が向いているのか?

丈夫な骨だっただけに、登山や旅行が好きだった父はまだまだ歩けたのだと思うと無念で悲しくなる。
もっと長く人生を楽しんで欲しかった。
私とももう少しどこか近くでいいから一緒に歩いて欲しかった。
火葬場の昔のイメージだと人の匂いが感じられたが、近年の火葬場は煙も見ることがなかった。

父のお骨を抱いて奥さんの助手席に乗り込んだ。
帰り際スタッフの方が、かなり重くてしっかりしているようでと仰ったので、それだけに残念ですと言った。
そうしたら、また、魂と肉体は違うからいつか会えるからと言ってくれた。
私はまだそういったことが信じられなく、人間の魂は無になると思っている。
だったら、お化けの話とかないでしょ?とそういう事を絶対的に信じる母に以前言われたことがある。
絶対ない!と私は反発した。
そうこうしていたら、祖母の遺影の下のテレビデオから自然とビデオが出てきて、2人でうぉ−!となったことがある。
ほらね、と母に言われた。
まだ死んだことがないから分からないのだ。

父の住んでいた家に骨で帰宅した、無念感。
全てが初めての経験で7/6からの一週間が長ーい絵巻物のように感じる。
歳をとると未経験なことが少ないから、時間が経つのが早く感じるのか。
毎日違う初めてを経験していれば昔のような時間の感覚になるのかと不思議な感覚だ。
悲しみの中で奥さんから言われた、人格を疑ってしまうことも父が幸せであったのであれば全てよしとする。
ただ、父と約束したことは守ってほしい。
父のレコードもゴミとなってしまうのであれば私がもらう。
それと、初めて面会に行った時に交通費のことなどこれから掛かるだろうからと財布からクレジットカードを出したが拒否した。
その財布が黒くてモロッコで買った?と言っていいたのかなボロボロだけど格好いいからほしい。
それ以上は望まないようにする。

父は常に政治を見張っていた。
だから、今年の正月にそのことについて話をして、「絶望しちゃいけないんだよ」という言葉が残っている。
一緒に住んでいる時は怖い父だったが、根は優しいって知ってる。
今年の5月の連休に遊びにきたら?と言われたけれどジャムセッショの練習で6月に行くという安易な計画を立てた、そこだけが深い後悔でひたすら2日間泣いていた。父ちゃん…ってずっと光で反射する遺影を眺めていた。
それでも、遺されたものは先に進んで行かなければならない。
供養や葬式は遺された者が次に進むステップの為の儀式でもある。
父はエンディングノートをしっかり遺して私たちを導いてくれた。
自分の病の経過記録も残していて、常に生きる希望を失わず、亡くなる2日前まで家に帰ったら何をするなど言っていたそうだ。
どういう訳か、その辺りは全く私は似ていない。
ただただ、父を尊敬するばかり。
でも、これを機に小さな挑戦を積み重ねたい。
そして、初めての肉親の死で人の悼みを身に沁みて分かることができる。
これは、父ちゃんからの贈り物なのだ。
ドナーさん、本当にありがとうございました。感謝、深謝。

父ちゃん大好きだよ。
74歳という年齢で大きな挑戦をしてくれて本当にありがとうございました。
動き回りたいと思うけど、少しゆっくり休んでね。
いや、思う存分動きたまえ〜(笑)というのが父への自由の解放なのかも知れない。

Bachが好きだったから葬儀を終えた日から聴いている。告別式で流したかったな。特に5と10。オルゴール音で絢香とサザンのTsunamiが流れていた。今のところオルゴール音がトラウマ。

父の命日に美術館。アイヌの部屋。
会社からの弔電が美しくて
棺に入れた燃えた手紙
秦野は落花生が名産🥜
愛読書と最近読み終えた本
バルセロナとタリンで買った帽子
父からもらってきたレコード
告別式の朝に止まった時計


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