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傷つきとは何か? 〜触覚 さわるとふれる〜

前回の記事の続きです。

前回は
・ケアとは 世話や配慮 表層を整える
傷つけないことが大切なシェアの関係 安心 安全

・セラピーとは 治療  深層を掘り下げる  辛いことにも取り組む
傷つくこともありうるナイショの関係 信頼 必ずしも安全でない
明確化 直面化 知る痛み

 
自分がどちらを求めているのか?
というニーズを知ることが大切であるという内容を書きました。
また、わたしは傷つくことを恐れないタイプであるということも書きましたが
今回はこの『傷付きとは何か?』を軸に書き進めてみたいと思います。

傷付きを掘り下げていくとき
わたしは境界の侵入を思い浮かべます。

大人になるに連れ分離していくわたしたちは
『自分の領域に入られる』 ということの中に
不快感や驚異、恐れを抱く様になります。

これは当然のことでもありますが
この殻が強すぎたり、弱すぎたりすると
健全な境界を育むことができずに
生きづらさを生むのだと思います。

その生きづらさのコアとなるものは
居場所 と 触覚 
なのではないか?とわたしは感じています。

この二つのうち、今回は触覚をテーマとして
美学者でありリベラルアーツ研究教育院准教授 
東京工業大学科学技術創生研究院未来の人類研究センター長でもある
伊藤亜紗さんの書籍  

      手の倫理 〜さわるとふれるがひらく世界〜 

から引用し、考えていきたいと思います。


(この本の内容がざっくりとでも掴み取りやすいように目次を抜粋します。)

第1章 倫理 倫理と道徳 多様性という言葉への違和感
第2章 触覚 低級感覚としての触覚 距離感ゼロと持続性 内部に入り込む感覚
第3章 信頼 安心と信頼は違う リスクが人を生き生きさせる
第4章 コミュニケーション ほどきつつ拾い合う関係 相手の体に入り込み合う
第5章 共鳴 隙のある体 
第6章 不埒な手 別のリアリティの扉 不道徳だからこそ倫理的でありうる


〜以下一部抜粋して記載〜


第一章  倫理 


・相対主義の決まり文句
「他人のことに口を出すべからず」
は、それゆえ反社会的な態度となる
思考を停止させるだけではない

倫理とは『お互いのことに口を出すべからず』が問題として役に立たない
どれほど意見が分かれていようとも
一緒に問題を解決していかなければどうしようもならない
まさにそのような問題に照準を当てたものだ

私たちは共に生きていかなければならない
だから、なおも考えつづけ、語り続けなければならない
これこそが倫理そのものであり、倫理的に振る舞うことに他ならない



さわる / ふれる ことは
避けようもなく他人のことに口を出す行為
他者を尊重しつつ距離をとり
相対主義の態度を決め込むことは不可能
この意味で 
さわる / ふれる
ことは本質的に倫理的な行為

倫理学者アンソニー・ウェストン(第一章 46p〜47p)


第一章からいきなりパンチの効いた言葉が並びますが
皆さんは読んでみて、どのように感じましたか?
中には体がこわばるような感覚を持つ方もいらっしゃるかもしれません。

このように さわる と ふれる という行為は
物理的な接触だけでなく、言葉や文章からも見えない身体に触れるかのような
『感触』があることがわかるかと思います。


・倫理一般は存在しない
倫理を抽象的模範(人間、権利、他者etc,,,)に結びつけるのではなく
むしろさまざまな状況に差し戻すこと

          哲学者 アラン・バディウ  (第一章 37P)

・この場合にはこうしなさいと道徳的に説いたり指図することは
一般的に言って倫理の目的ではない

その真の目的は、
考えるための道具を与え考え方の可能性を広げることにある。

世の中にはそんなに単純で明確なことなどめったにないことを認め
  ーこれは倫理の根本であるー
それを踏まえて、困難な問題を考えていく
そのために倫理はさまざまな可能性を示すのである。

だから進むべき道を求めて格闘し、不確かなまま進んでいく。
それなしには倫理はあり得ない   

           倫理学者アンソニー・ウエストン(第一章 41p)


・さまざまな状況に差し戻すこと
・進むべき道を求めて格闘し不確かなまま進んでいく

という言葉には 
さわる・ふれる を通しての痛みや傷付きや
考える ということに付随したわかりにくさが
避けられないものであることが感じられるかと思います。


第二章 触覚

・低級感覚としての触覚

・西洋の触覚論はさわる 偏重 

・なぜ触覚が劣っているのか
・触覚の距離のなさは対象に物理的に接触することなしに認知が成立しない
    ー自己の欲求や快・不快に直結する 
・ナイフや毒物などを認識する時にリスクが伴うという点は触覚の弱さである
・それと同時に信頼の基盤にもなるのが触覚


触覚というのは
人の身体に触れるという仕事をしてきた私にとって
言葉よりも多くを語る行為です。

目ではなく手を介した人間関係『触覚』を通じて人を感じること 

個と個の間を隔て互いを恐れ、敬い、尊重することも境界。
ふれないで!入ってこないで!と自己を守るものも境界ですが
後者はリスクを恐れていて信頼のない状態とも観て取れます。

逆に、触れられたらふわっと緩んで安心した。
というような経験もあるのではないかと思います。


この触覚というものは人間の根本にあるもので
嘘や偽りが一切通用しない世界だとわたしは感じていますが
そこには畏れや傷付きというリスクが付き纏うものだとも思います。

また、西洋の触覚論のさわるの偏重には
我ーそれ 的な印象を感じます。
一人の人間としてではなく
モノのように扱われるような、それ です。


・『内部をとらえる感覚』としての触覚
視覚 横に並んでいるもの
聴覚 時間的に前後するもの
触覚 内部に入り込む感覚

”さわる対象が自ら語り出す
さわる手の動きと対照の語りの相関 (内面的共感)
生命 魂 内部にあるもの 
奥にあるたえず動いてやまない流れを手がとらえる”

”自然が作り出したものの内部にある
生命の絶えず動いて止まない流れ
この自然の言葉を聴くことが触覚の役割”


この言葉も決して表面的ではなく
皮膚を通して
相手の存在や相手の生命に触れたときの感覚を
表している様に思います。

自分のそれを信じていない人には
決して開かれることのない世界です。

・距離ゼロの表面を超えて その奥、距離マイナスへ

対象の内部を捉える感覚
一つの対象への没入

”視覚が表面的なのに対し
触覚はさらにその奥まで行ける 距離感マイナス
生き物の体は視覚にとって見通せない不透明なものですが
内部の流れを感じることの触覚についてはむしろ透明なのです”


第三章 信頼

・安心と信頼は違う

”安心と信頼は時にぶつかり合うもの
安心を優先すると信頼が失われてしまう
逆に安心を犠牲にしても相手を信頼することがある”
 

”相手のせいで自分がひどい目に遭う可能性を自覚した上で
ひどい目に遭わない方に賭ける”

”リスクが人をイキイキとさせる
ふれられる とは 主導権を手渡すこと”


”痛みを加えられるかもしれない 傷つけられるかもしれない
不確実性は ふれる側 ふれられる側共にある”

”アクションの不確実性を超える
安心と信頼は違う内部に入り込む”


深く人と出会いたいと思う性質のある私は
そうまでして
主導権を頑なに離さないのは
何故なのだろう?と感じてしまう。


”『ふれる』を突き詰めていくと、その果てには『さわる』が 
つまり、【ふれあうことなど不可能な存在としての相手】が
立ち現れてくる次元がある”

このことは中動態でもあると感じます。

する(能動)VS される(受動)
そのどちらでもない何かが起こる。


これは人間が、双方向の交流をしているときに
自然と起きていることでもあるように思えます。
野口整体の愉氣というものもこれと同じで
本来はお金を介在させる様なものではない
エネルギーの交流なのです。

また、

”誠実であろうとすればするほど
他者に対する態度は 非人間的な さわる に接近していきます
哲学者の鷲田清一は人の声を聞くことが持つ触覚的な側面について論じながら
ふれるの中に実はさわるが含まれていることを指摘している”

著者の伊藤亜紗さんはここで
>ふれる には 坂部の言うような
自己と他者の境界の溶解 あるいは 相互嵌入
で片付けるべきではないような部分があるのではないか

と述べています。

”その変調 
そのきめの微かな変化にふれることとしてのさわるもあるのである
【自ー他の溶解としてのふれあい】よりもむしろ
このような【異質さそのもの】にふれることとしてのさわること

つまり距離を置いたままの接触の中にこそ
より深い自ー他の交換が訪れることがあるのである”


このことは
全ての人が本能的に感じる尊さと畏怖につながると思うし
畏れを抱くのは当然なのですが
その先に出会えるものを求められるかどうか
が傷付くことの体力になるのだとわたしは思います。

この体力というのは
【傷付きやすさ】とは比例しない
関係性に何度もトライエラーをしていく中で
自然と育つ体力なのです。



人間は さわる と ふれる を抜きにして生きることは出来ません

例えば触覚で考えた時に
人間は生まれてから成長するまでどんな動物よりも手間がかかります。

お風呂に入れてもらい、オムツを変えてもらい、
撫でられ、抱かれ、
手助けがなされなければ
衣服を着ることも出来ません。

他者を見て真似ることで 立ち、歩き 
恋をして、恐る恐る相手に触れながら
少しずつ相手に委ねることを覚えていく。

このように自分と違う異性を内部に取り込んで
自己の内部の両性的な発達を育んでいくことにも
さわる と ふれる が強く関係しています。

病気をすれば、再び誰かの手が必ず必要となりますし
さわる と ふれる を 意思で拒否できる時期は
人生の中で本当にわずかなもの

人間は、それを拒めば容易に死んでしまうような生き物です。
もし自分が病気や介護が必要となった場面で
いきなりそれを許すことができるのでしょうか?

人間は一人で生きていくとが出来ないからこそ
畏れを超えて少しづつ歩み寄っていくことが大切なのではないか?
とわたしは思います。



・倫理とは創造的なもの


”触覚は現実のなかに存在しているという確かさを与える一方で
別のリアリティへと私達を導く扉にもなりうる”

”触覚がその直接性の中に隠しもつ扉は
わたしを『その状況にふさわしくないわたし』にすらしてしまう可能性がある
不埒な誘いに乗って あるいはそのそばで抵抗しながら
状況にとっての遺物となった自分に出会うこと”

これも中動態的ですね。

意識の底に追いやって無かったことにしていた自分や
まだ見ぬ自分の側面と新しく出逢い直すことも、
自分を離れて起こることなのです。
このことは、経験することでしか理解し得ない。


最後にご紹介したい一文


”【自分の中にある異質なものに導かれていく】
こうした感覚こそ
実は状況に深く分け入り
伝達的でない仕方で他者と出会い
その中に入り込み
持続的に関わっていくその導き手となる”



私たちは誰もが
自分のして欲しいように、ふれて欲しいと切に願う。
けれども
世界はそのようにはできていないし
自分を守っているだけでは
他者と出会うことは叶わない。

もしもあなたが今
自分のして欲しいようにふれて欲しいのならば
どのように触れて欲しかったのか?という
満たされなかった自己の幼少期の欲求を
自分でたくさん満たしたり
しかるべきケアが受けられる場所や
成熟した心を持つ相手を探すといい

でも、
少しでもそこを抜けて
新たな誰かと出逢いたい欲求が出てきた時には
傷つくことを恐れないこと

その勇気を持って
あなたが出逢うべきまだ見ぬ誰かと出会って欲しい

そんなふうに思います。

今回は長い記事となりました。
最後までお読みいただきましてありがとうございます!

もしもこの記事が心に響いた方は、是非とも
伊藤亜沙さんの書籍を手にとってみてください。


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