『龍族Ⅲ 黒月の刻』「前編 氷海の玉座」第一章:欽差大臣


 この港は檻であり、世界の果てに立つ孤独な要塞である。ここに来たりし者は、如何なる者も去ること叶わない。唯一の例外は、比類なく全能な黒い大蛇。ある日、彼の者は怒り、その長い尾を振るって全てを打ち砕くだろう。この「黒い白鳥」の港、この雪の氷原……そして、世界の全てを。

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1991年、晩秋。シベリア北部、名もなき港。

 その港は広大な北極海に面し、シベリアの最北端に位置する。地図には存在せず、米国の監視衛星も見つけることはできない。周辺の永久凍土は、あらゆる熱と共に港そのものの色を灰色と白に塗りつぶしてしまう。

 こんなところに港など、あっていいはずがなかった。人の住むような場所ではない。この場所にもっとも近い都市はベルホヤンスクだ。帝政ロシアの時代、ベルホヤンスクは政治犯の拘留場所で、絶望の嘆きに満ちていた。長い冬が来れば、収容者は誰一人として生き残ることはなかった。多くの者は寒さの中で冷たくなり、そうでない者は自殺した。そんなベルホヤンスクですら、名もなき港からは南に340キロも離れている。犬ぞりで移動すれば5日はかかる距離だ。
……神々に忘れられた場所。植物は地衣類と苔のみ。時折訪れるのは、空腹のシロクマ。

 錆びた鋳鉄製の桟橋が凍った海へと続く。若い歩哨がひとり、桟橋の端に立っていた。肩に「ペーペーシャ短機関銃」を掛け、白熊の皮帽子を被っている。五つ星が埋め込まれた首装飾から、彼がソビエト赤軍の軍曹だということがわかる。

 水平線上の太陽はゆで卵のように薄白く、空気を暖めるには程遠い。しかしこれが今年最後の日差しなのだ。極夜がまもなく始まり、今後数カ月のあいだ、再び日が昇ることは無い。歩哨は氷の海の端に目を向けている。海には孤独な冷たい風だけが波をうち立てている。船はまだ見えなかった。
この海域にふつうの船が近寄ることはない。海面には危険な流氷が浮かび、海底では猟犬のようなサンゴ礁が牙をむいている。こんなところに近づく船の船長にできることは、打つ手なしに海底で眠りにつくことだけだ。しかし、海氷は夏になれば例外なく溶けて割れる。航路を知っている船員が乗れば、砕氷船をつかって名もなき港に到達することができた。この危険極まりない航路は名もなき港の命綱であり、すべての物資供給はこのルートを使う砕氷船に依存している。

「レーニン」は毎年ここに来ていた。時間は変われども、約束を破ることはなかった。それは、白い舳先に赤い五つ星が埋め込まれた、数世代前の原子力砕氷船だ。この偉大な救済者が来る日は、いつからか名もなき港のお祭りの日になっていた。兵士たちが熊皮の帽子を振りながら駆け寄り、皆で桟橋に集まり、海面の上に巨大な船の影が昇るのを見守るのだ。レーニンはまさしく、「皇帝」だった。その威容は流氷を突貫し、あとには紺碧の水路だけが残される。それはソビエトの力であり、鋼鉄の拳であり、完全無敵とも思えた。しかし……今年はあまりにも遅すぎた。海面はまったく凍って氷層は下へと伸びはじめ、その数週間後には航路が完全に途絶え、レーニンでさえ切り開けない白の世界となってしまった。

 モスクワに何か問題があったのだろうか? 歩哨は「モスクワ」ブランドの煙草を指に挟んでいたものの、何度弄ってもライターが付かない。灯油が凍っているのだろう。
「くそが……」歩哨は手袋を外し、手のひらでライターを温めはじめた。
 その時、突然彼は頭を向け、氷海の向こうを注意深く見た。風が吹き、暗い巻雲が北から降りてきた。この高緯度地域はサハラ砂漠より雨量が少ないものの、ひとたび黒い積乱雲が現れればすぐに空に広がり、降雪が港を覆い尽くす。海面の雪埃は白い砂嵐のように巻き上げられ、その高さは数十メートルにまで及ぶのだ。……今、雲に覆われた領域は暗く、残りの半分は氷海の淡い白色。その境界はとてもくっきりしている。
歩哨が鉄枠のもとに跪き、青銅の鐘を鳴らすと、音色が孤独な雪原へと散っていった。これは吹雪の早期警報だ。
 早期警報を発した後、歩哨が熊皮の帽子を被って戻ると、信じられないものが視界に飛び込んできた。漠然とした影が雲の下を滑り、氷丘をすばやく迂回しながら高速で近づいてくる。

 スキーヤーか?

 歩哨は自身の目を疑った。誰がこんな所にスキーで? 南から来たならば、ベルホヤンスクに駐留している国境警備隊かもしれないが、北から来ているのだ。その向こうには何もない、あるとすれば北極点だけだ。
歩哨は煙草を持ったまま、歯を震わせていた。目の前の状況を理解することができない。米国の特殊部隊が吹雪を攻略したのか? わざわざ大きなリスクを背負って? そんなばかな。吹雪に巻き込まれに来る奴なんているはずがない。

 考えればそれほどわからなくなるので、歩哨は肩にかけたペーペーシャ短機関銃を腕に構えた。ここ軍事区域では、あらゆる侵入者を撃つ権利が彼にはある。だがその瞬間、スキーヤーがソビエト海軍の共通スローガンである小さな二つの赤と白の旗を振って、「レーニン」という言葉を確かに発したのを、彼は聞いた。レーニンが来ると毎年、船員は旗を使ってこの言葉を発し、彼らがモスクワの特別使節であることを示し、ソビエトの哀悼の意を名もなき港に運んできた。モスクワは今年やり方を変えたのだろうか? 物資を届けるために、代わりにスキーで? 歩哨の思考は見当をつけられなかった。しかし、もう撃つことはできない。スローガンはすなわちコードサインで、相手にこの名もなき港に入る権利があることを示している。

 猛烈な雪塵を背負いながら、スキーヤーは歩哨の前でブレーキをかけ、ゴーグルを外して雪の中に投げた。精悍な男だった。アイアングレーの髪はヘアスプレーで綺麗に整えられている。全身の筋肉のラインは透明で柔らかく、セクシーとすら思える。歩哨もモスクワではハンサムで美しい若い将校を見たことがあったが、目の前の男はそれ以上だ。彼は実際には軍のショートパンツとノースリーブのベストを着ていただけで、身体はマイナス十度の突風の中でも汗をかいていた。男は懐からライターを取り出し、優雅な手つきで火を付けてみせた。スターリングシルバーのライターには鎌と槌の紋様、それに「十月革命 七十周年記念」と彫られていた。
 歩哨はこの善意を拒むことが出来ず、煙草を伸ばして火を付けようとした。
「それはお前のだ」男は手を伸ばす代わりに、ライターを歩哨にむけて投げた。
 歩哨は彼が同じライターをもう一つ手に持っていることに気付き、その洞察力と胆力に感服した。なんという余裕だろうか。普通の人はすぐにでも暖かい休憩場所を望むにもかかわらず、彼はそうでなかった。これは彼が極寒の中をスキーしてきたにもかかわらず、余力が残っているということだ。男は軍用のバックパックからダークグレーの将校服を取り出し、しばらくして着替え終わると、胸に「赤い旗」を厳粛に貼った。ほんの少し前までスキーヤーだった者は、いまやモスクワから来た若きパワーリーダーとなっていた。
「KGB。モスクワから来た、ボンダレフ少佐だ」男は文書を取り出して言った。「ヘルツォーク博士に会わせてくれ。この港は今年も生き延びられるぞ」
「はい!同志少佐!」歩哨は敬礼した。
 男は自分の身分を最も簡単な言葉で述べた。モスクワからの特使で、秘密情報機関の上級構成員だ。皇帝の時代、この種の人物は「首相」と呼ばれていた。

 地下室は春のように暖かく、古いレコードプレーヤーがチャイコフスキーの「白鳥の湖」を演奏している。老人はウォッカのボトルを一本緩め、グラス二杯に透明の氷を沈めた。彼はそのうちの一つをボンダレフ少佐に手渡した。
「私達の国を尊ぶ同志少佐。ブラックスワン港へようこそ」老人はグラスを上げた。「グラスの中の氷は、我々の偉大な祖国の凍った土壌の地下深く、数万年の歴史を刻んでいる。私達の純粋で強力な友情を象徴するようだ!」
「わが祖国の為に。ヘルツォーク博士」ボンダレフは老人とグラスを鳴らしてから、一緒に飲んだ。

 ボンダレフはグラスを弄びながら、老人を興味深く見た。彼はこの「ヘルツォーク博士」の年齢が分からなかった。博士は八十歳の男性と二十歳の男性の特徴を併せ持っていた。ウールの軍服は背の高い彼の身体に合い、ズボンのラインは引き締まり、首元には紫色のスカーフが巻かれている。澄んだ銀色の髪が綺麗に梳かされているのは、まるで二十代の若者のようだ。しかし一方で、深い時間の痕跡が、彼の目の奥にしっかりと刻まれているように思える。いまだ「ハンサム」といえる顔をじっと見ていると、ゆっくりと剥がれていく宗教壁画のようにも感じられる。
 博士は頭を下げてワインを追加した。「レーニンは毎年ここにきて、一年分の物資、食べ物、器材、燃料……それと女性用ストッキングと、ウォッカを持ってくる。この場所の寒さは世界の終わりのようだ。外から支援してもらわなければ、みな死んでしまう。しかし……今年はレーニンではなく、KGBの若者とは? 一年間の支援を取り付ける代わりに、ブラックスワン港を手中に収めたいとでもいいたいかね?」
「残念ながら、支援はもう二度と来ないでしょう」ボンダレフは博士の目をじっと見据えた。「我々の偉大な祖国は災害に直面しています。モスクワの状況は、非常に混乱しています」
 博士は驚いた。「暴動か?」
「正確に言えば、ソビエト連邦はもはや存在しないでしょう[1]。我々の共和国の間には偉大な革命的友好がありましたが、今や消滅してしまいました。現状のまま共産主義を続けられるかどうか……。勿論、各国には各国の声がありますが、国の経済状況はいずれも悪化しており、軍の供給も不十分、工場もろくに機能しておらず、人々の心は離れています」

[原注1] 1991年12月25日、かつて米国と争っていた超大国であるソビエト連邦が崩壊した。この物語の舞台となる時代、ソビエト連邦は崩壊の嵐の真っただ中にあった。ソビエト連邦は様々な加盟国の連合であり、正式名称「ソビエト連邦社会主義共和国」という。崩壊後、十五か国に分かれた。

「我が国は崩壊するのか?」
「恐らく。今年も持たないでしょう」
博士は静かに溜息をついた。「私も政治情勢が変化すると予想してはいたが、これほど早いとは思っていなかったよ。実際、私達は外界と連絡を取らず、電話回線やラジオもない。外界を理解できるものは新聞くらいだ……毎年レーニンは新聞を一年分持ってきてくれるからね。だから私達の情報は、外界から一年遅れているんだ。共産主義は……一年前には、無敵で、あらゆる困難も打破していくと言っていたのに、一年後にこれか……。我が国はもう存在しないというのか。シェイクスピアでさえ、こんな悲劇は書けないだろう……。……国は、どうなるのだ?」
「連邦の財産は、戦闘機、空母、さらには核兵器を含めて、様々な共和国の間で分割されます。この港も例外ではありません、どこかの共和国に配分される可能性があります。私はここの存在を確認し、評価するように指示されました。……まず、用途を知りたいのです。この港は非常に神秘的です。毎年莫大な国の資産を費やしているのに、その目的を知っている部署が我々にはないのです……」
 博士はしばらく黙っていた後、微笑んだ。「KGBは地図上に港を見つけたが、それが何のために使用されているのか分からなかった。君の上司は怒っているだろうね」
「はい。最高機密機関であるKGBすら、この港についての真実を掴んでいないのです」
「君はこの港を調査しようとして、向こうでは何か情報を得たのかね?」
「情報といえるかどうかも怪しいものです。確認できたことは、この港が実際にはブラックスワン港という名ではないということ……これは貴方のつけた慣名でしかない。正式名称は存在せず、コード名『δ』しかありません」ボンダレフは言った。
「わが国内の全ての機関にはアーカイブがあり、KGBにはそのバックアップがあります。しかし、バックアップにはそもそもコード名すらありませんでした。これは、誰かがアーカイブから情報だけを抜き取って、コード名『δ』だけを残したということです。一般人ができることではありません。私はお手上げでした」
「科学は政治よりも神秘的だね」と博士は軽く言った。
「科学者を養う為といっても、数百億ルーブルの国家資金を様々な名前で横領する権利を有するからには、並外れた価値を持っているのでしょう。そうでなければ、『ブルジョワ』達は愛人にこの資産を注ぎ込むはずです」ボンダレフは微笑んだ。「あなたに価値があるとなれば、事は簡単です。価値のある人間はいつの時代も尊敬される」
 博士はグラスの中のワインを通してボンダレフを覗き、しばらくして突然笑い出した。
「私は笑い者ですか?」ボンダレフは自嘲するように言った。
「秘密の研究をする者というのは、いつも過大評価されるものだね」博士はグラスの中のワインを全て飲んだ。「ボンダレフ同志、君は何か勘違いをしているようだ。ここで研究していることに、やましいことなどなにもないのだよ。プロジェクト……。私達の仕事は、ソビエト連邦最大の遺伝子データバンクを構築することだ」
「遺伝子データバンク?」
 博士は頷いた。「ソビエト連邦の全ての人々の遺伝子を収集し、巨大なライブラリを構築するのだ。このライブラリが確立すれば、核戦争が勃発し、人類が絶滅の危機に瀕しても、クローン技術を使って人類を復活させることができる。私がこの場所を選んだのは、我々に秘密があるのではない。ここの世界最大の天然氷窟ならば、電気がなくなったとしても、遺伝子サンプルを数十万年は残しておけるのさ」
「それだけ?ですか?」ボンダレフは眉を顰めた。
「失望させて悪いが、本当にそれだけなのだ。私は何十年もの間これに取り組んできて、ちょっとした思い入れもあるが、国がプロジェクトを畳む方針ならしかたない。すぐにでも君の手伝いの者を用意する準備がある」博士は溜息をついた。「老後は南国のビーチにでも住むかな……」
 その時、扉が開き、看護婦がやってきた。「先生、吹雪が過ぎて、数時間だけ晴れるそうです。この後数日吹雪が続くそうなので、息抜きに子供たちを外に連れて行ってくれませんか?」
「子供?」ボンダレフは驚いた。
「我々が国内で遺伝子収集を行っていた時、遺伝子に欠損を持つ孤児達を引き取ったんだ。みな、私達の研究対象だが、両親をなくし、行くあてもない子たちだ。……そうだ少佐、子供たちに会っていくといい。ここではお客さんというのは珍しいものだからね。君がいったいどんなことを話すのか、みな聞きたがるだろう」
 博士は立ち上がり、オフィスのドアを押し開けた。

 芝生の上を、3~4歳から11~12歳ほどの子供たちが駆けまわっている。きれいなワンピースの白い綿の服を着て、綿の手袋をつけ、袖口にはそれぞれに別の番号が刺繍されている。子供たちは明るくふるまい、顔は赤く、動きも軽やかで、ふつうの孤児院の子供たちとは違っていた。ここではとても良く扱われているらしい。医療スタッフが子供たちを追いかけ、名前を呼んで、体温と血圧を測定する。終われば、子供たちはごほうびに綿菓子を与えられていた。

「こんな極地に草があるとは。苔と地衣類しかないと思っていたが」
「建築設計術のたまものさ。ブラックスワン港は、全ての建物が隣り合わせになっていて、いずれも地下通路で繋がっている。どれも一メートル以上の厚さのコンクリート壁で囲まれているし、ガラス窓は小さいから、暖かい空気を保てるようになっている。この芝生はそんな建物に囲まれているから、冷たい風にもあたらないし、そうでなくともとても丈夫な品種だ。一年中緑をみることができるんだよ」
「貴方はブラックスワン港の設計者でもあるのですか? 運営を担ってきただけでなく」
「ああ、幸運なことにね」博士は子供たちに挨拶をし、名前を呼んだ。
「まるで父親のようですね」ボンダレフは言った。
「孤児院というとたいてい、黄色かがった肌の痩せている子供たちの集団を連想されるがね。実験の為に毎日子供たちから血を抜いているのではないかとも」と、博士は笑った。「ナチの強制収容所のように」
「ナチといえば……私見ですが、あなたの姓の『ヘルツォーク』、これはドイツの姓ですね?」ボンダレフは言った。
「ああ、私はヒトラーの第三帝国で働いていたよ。帝国生物学研究所で最年少の博士号を取って、16歳でミュンヘン大学を卒業した。自慢ではないが、天才とはよく言われたものだ」博士は少し溜息をついた後、自身の過去についてのいくつかを淡々と話した。「……1945年。ソビエト赤軍に逮捕された私は、モスクワに送られた。一年の『再教育』の後、私は『δ』の責任者によってブラックスワン港に送られ、それからずっとここにいる」博士は立ち止まった。「私はどうでもかまわない。ただ問題は……プロジェクトを片付けるとなると、子供たちはどこにいけばいいのだろうか……」
「バラバラにはなりますが、他の孤児院に移しますか?」ボンダレフは言った。「貴方は彼らを本当に愛しているように見えます」
「人間とは、コミュニティに属するものが少ないほど、互いを大事にするものだ。私はもう老いぼれだ。研究を除けば、子供たちと戯れること以上にすばらしいことはない。この冷たく凍った世界の終わりでも、ひとはひとのぬくもりを感じることができるというのが、どれほどすばらしいことか。たとえ私の手を離れたとしても、みなには幸せになってほしいと願うよ」
彼は小走りに駆けて、雪の中にうずもれた一人の少女を拾い上げ、まみれた雪をはらってやった。ボンダレフは、その子が少し『違っている』ことに気が付いた。まるで、一人だけ、違う星の子供が紛れ込んでいるかのような違和感……。他の子供たちからも少し距離感があるようで、追いかけっこや雪遊びもしていない。彼女は熊皮のポーチを抱え、壁に沿って一人で歩いて、迷子の子犬のように隅を見つめていた。特段美しいというわけでもない。小さなそばかすがちりばめられた顔には血の気がまったくなく、薄い身体は紙人形のようだ。しかしブロンドの髪は気品を感じさせ、肌は氷と雪のように白く、深く静かな目をしている。

「私の可愛いレナータ、今日もとてもきれいだ。何を探しているのかい?」博士は女の子の小さな顔を撫でた。
「花が咲いているのが見たいの」レナータがささやくと、どうにもかしこい子供のように見える。
 彼女のブロンドの髪は三つ編みにされ、先っぽを黄色のプラスチック製の蝶のついた髪留めが締めている。この氷雪の荒野にくらべれば、白と黒と、軍服の灰色と五つ星の赤、それにプラスチック蝶の黄色によって暖かく彩られているのがわかる。
 博士は彼女の頭に触れ、溜息をつき、ボンダレフに振り返った。「ここは寒すぎて、花と言えば……ホッキョクヒナゲシくらいだろうか。花は女の子の休日のように、数日くらいしかもたない。それに時期も終わってしまった。同志少佐、この子たちを暖かい場所に送って、いつか丘一面の花畑をみせてやってほしい」
「それは……善処しましょう」ボンダレフは言った。

 レナータはヘルツォーク博士とボンダレフ少佐の背中をじっと見て、彼らが去っていくまでなにも言わなかった。芝生の上で足踏みしながら、壁の下にある謎の痕跡にだけ、こっそりと意識をかけていた。
 ホッキョクヒナゲシなんて探してすらいなかった。彼女は眉の一つもゆがめずに嘘をついた。見た目には全く分からなくとも、彼女は嘘をついた子供だった。この場所では、真実はいつも自身を追い詰めるものでしかない。だから誰もが嘘をついていることを、レナータは知っている。嘘をつくことに関して、レナータは誰よりも才能があった。どんな嘘をついても無表情で、目線が揺らぐことはなかった。看護師は彼女を紙人形のようだと言う。実際、表情も心もない紙人形のようで、殴られたり叱られたりしても泣かない子だと思われていた。看護師は子供の泣き声を聞くために体罰をするから、レナータは体罰すら受けることはなかった。
 レナータは叱打の痛みを知らないわけではない。けれども、看護師たちが子供を殴るとき、子供が泣けば泣くほど彼らは幸せそうに顔を歪めるから、せめてもの抵抗をしまいと、レナータは空虚な態度をとっている。

 彼女は黒蛇の痕を探していた。満月の夜になると、いつも必ず夢に見るあの黒い巨大な蛇。彼の者は怒り狂う竜のようにブラックスワン港をちぎり倒せば、北極海を見下ろす高台に、教会のように坐する。
 夢の中で鍵のかかった扉が開くと、レナータは好きなところへ行くことができる。まるで別世界のようでも、現実的な夢。誰もいない廊下を歩けば、小さな窓から月明かりが輝く。あらゆる場所、あらゆる場面がリアルそのものだった。子供たちが入ってはいけない、立入禁止区域まで歩くこともできた。図書館に歩いて座って、大きな本を棚から取り出して静かに読んだりもした。どれだけ読んでも、誰も気にしない。台所に行って何かを手に入れることもできた。ストーブにはいつも焼き立てのパンが供えられていた。レナータがどんな時間に行っても、常に適度な焼き加減だった。だんだんとレナータは次の満月の夜、自由の夜を楽しみにするようになった。

 ある日彼女は、それが夢ではなく現実なのではないかと思うようになった。看護師が子供たちを、いつもは入ってはいけない図書館に連れて行った時だ。レナータは、図書館の内観が夢で見たものと全く同じだったことに気が付いた。満月の夜に読んだ本が、本棚の全く同じ場所にあった。夢の中で本を読んだ後、厚い年鑑の横に戻したのを、はっきりと覚えていた。……次の満月の夜、レナータが眠らずじっと起きていると、丑三つ時に暗闇の中からカスタネットの音が聞こえた。小さな窓に横になって外を眺めると、黒い鱗が見えた……。この港の最大の秘密を見つけた!……その時、レナータは小さなベッドの上、朝日の中で目覚めた。けれども、まるでまだ夢の中にいるかのようだった。奇妙に夢と現実が融合したレナータは、真夜中に指をつまんで眠っていないのを確認したことを、はっきりと覚えていた。けれども鉄のカスタネットが鳴るのを聞けば、現実はすべて夢になってしまう。
 他の子供たちは黒蛇の事を知らない。夢の中の彼らは扉の裏で静かにしていて、目は虚ろで人形のようだ。それに、その扉が開かれることはなく、黒蛇は叫ぶレナータの部屋だけを訪ねるのだ。
 レナータは黒蛇が夢ではなく、実在のものだと思っていたが、この秘密は頑なに守り通した。黒蛇について他の子供に話せば、精神的変調をきたしたとされ、看護師によって隔離室に移されてしまうことを、レナータはかつて思い知った。レナータは隔離室が嫌いだった。孤独な椅子と滑らかな壁しかないあの空間。その椅子に座れば、自分が次第に乾いていく小さなキノコのように思えてしまう。隔離室の小窓は縦20センチほど、横幅は計る意味もないほど狭く、子供が登れないようになっている。熱を節約するだけでなく、人を監禁するのにもすぐれた機能的デザインだ。

 この港は檻であり、世界の果てに立つ孤独な要塞である。ここに来たりし者は、如何なる者も去ること叶わない。唯一の例外は、比類なく全能な黒い大蛇。ある日、彼の者は怒り、その長い尾を振るって全てを打ち砕くだろう。この「黒い白鳥」の港、この雪の氷原……そして、世界の全てを。

「――この千年が終わると、サタンはその牢から解放され、地上の四方にいる諸国の民、ゴグとマゴグを惑わそうとして出ていき、彼らを集めて戦わせようとする。その数は海の砂のように多い……」満月の夜、ブラックスワン港に流れた唄声を、レナータは覚えている。なにか狂った吟遊詩人を彼女が見たわけではないが、氷海を舞台に何か素晴らしい脚本が上演されているかのように感じていた。

 看護師が黒い拍子木を取り出して打ち鳴らす。走っていた子供は雪の中で人形のように立ち止まった。彼らが追いかけていたボールはそのまま転がっていくが、子供たちの目は徐々に白くなり、精神がうしなわれていることがわかる。
 隅にある黒い鉄の扉が開き、拍子木を叩いた看護師が前を歩いていくと、子供たちはついていく。堅苦しく重い足取りで、前の人の肩に手を添え、一列に並んでいる。別の看護師がドアの傍で袖口の番号とリストを照らし合わせ、貴重な「サンプル」が失われていないことを確認した。
 レナータが扉を通り過ぎるとき、看護師は三つ編みの黄色い蝶をぐいと掴み上げ、眼鏡越しの冷たい目線で彼女をつらぬいた。「次にベッドを濡らしたら、またこれをつけてもらうからな」
 黄色の蝶は、春の暖かさのおすそ分けではなく、子供が「おいた」をしたことの烙印である。レナータはおねしょをして、昨晩まで隔離室にいたのだった。

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