見出し画像

子どもとは何か、大人とは何か。

子どもの日なので、子どもについて考えてみたい。子どもについて考えることは、間接的に大人を再認識することでもある。

4月に図書館でワイド版岩波文庫のルソー『エミール』上巻を借りて読んだ。なぜこの本をいままで読んでこなかったかなと後悔するほど、素晴らしい内容だった。

あらためて調べたところ、ルソーは「子どもを発見」した思想家だという。18世紀のフランスでは、子どもは「小さい大人」と認識されていた。しかし、ルソーは子どもたちの発達段階に注目し、自然人としての子どもの意義を見出した。

そもそもルソーに興味を持ったのは、孫泰蔵さんの『冒険の書 AI時代のアンラーニング』という本で取り上げられていたことがきっかけだ。巻末にマップ付きのブックガイドがあり、そこに掲載された17冊の本のひとつである。

この17冊を読んでいこうと考えていて、最初に手をつけたのがロバート・オウエンの自叙伝だった。

オウエンは18世紀後半から19世紀の産業革命のイギリスで、紡績工場の経営者として成功を遂げた。その功績にとどまらず、従業員のために生活必需品を安価で提供した。さらに工場で働く従業員の子どもたちのために、幼稚園を作った。世界に先駆けた幼児教育の実践者である。

産業革命の時代の子どもたちは、幼少の頃から働かされていたという。オウエンは、10歳未満の子どもたちに働かせることをやめさせ、合唱やダンスなどの教育を行った。こうした革新的な施設を視察に訪れるひとが増える一方で、教会などから反発を受ける。しかし彼は信念を曲げずに、子どもを仕事から切り離した。

もちろんルソーやオウエンの考えには共感する。ただ、時代を逆行するようではあるけれど、大人と子どもを分離せずに、自律した存在として尊重する「小さい大人」の考え方もあっていいのではないか。もちろん働かせようという意図ではない。

ルソーは、12歳になるまで子どもに本を読ませるなと主張していたらしい。彼の思想にもとづくと、現代では子どもからスマホやゲームを奪うべきである。子どもに悪影響を与えるものから隔離して育てることが理想かもしれない。実際にアップルの創業者であるスティーブ・ジョブズは、自分の子どもには自社製品のiPadやiPhoneを触らせなかったようだ。

ところが時代は大きく変わった。スマホやタブレットなどの端末だけでなく、これからは「子どもたちにAIを使わせるかどうか」という議論が生まれるだろう。

こうした時代のなかで「子どもたちを、子ども扱いすることがよいのか悪いのか」という疑問を感じている。その是非は分からない。

しかし、子どもだからといって無邪気、素直、かわいい、未熟だから何も考えていないというステレオタイプの認識は違うと思う。

自分の記憶をたどると、おぼろげながら幼稚園の頃から大人のような思考を持っていた。概念や言葉にはできなかったが、競争や派閥、忖度や仲間外れ、裏切りや騙し合い、そういった大人の世界のミニチュア版が子どもの世界に存在した。

生きづらさを感じることもあったし、時には孤独に苦しまされた。孤独という言葉は知らなかったけれど、胸を締め付けるような思いに押し潰され、やさぐれたくなる気持ちがあった。

児童文学のジャンルに限らず大人が読む小説にも、こうした子どもたちが描かれることがある。西加奈子さんや、森絵都さんの作品には多い。

一方で「大きな子ども」もいる。

まるで「ママがお洋服を着せてくれないから、お外に出かけられない」のような依存した言葉を衒いもなく使う大人がいる。自分の思う通りにならないと暴れる。自律および安定した思考を維持できない。

障がいがあるのなら仕方がないし、大きな子どもを批判したいわけではない。要は、外見や社会的地位だけでは子どもなのか大人なのか、判断が難しいということだ。

分かりやすいのは「年齢」だ。精神面を除外して、誕生から今日までの生物的な存続の日数を比較するのであればシンプルになる。80歳は60歳より大人だし、20歳は18歳より大人である。

この観点から次のようなこともいえる。

大人は子どもを経験しているが、子どもはまだ大人を経験していない。80歳の大人は60歳の子ども時代の経験があり、20歳の大人は18歳の子ども時代を経験している。しかし、60歳の子どもには20年後に自分が迎える80歳の大人が分からない。また、18歳の子どもには2年後の20歳の大人が分からない。

「親の気持ちは、親になってみなければ分からない」と言われるが、未来をまだ体験していないという意味では、その通りだろう。あるいは「孝行したいときに親はなし」である。子どもたちに考えてほしいのは、親がいるときに聞きたいことがあれば、話をしたほうがよいということだ。

ただし大人側が子どもと話すときに注意すべきことは、子どもと大人は、まったく違う時代に生きている認識である。

当たり前のことだが、60歳の大人が経験した子ども時代は、現在の10歳の子どもたちが経験している現実とはまったく別の世界だ。インターネットさえなかった昭和の日本と、AIがめざましい進化を遂げる令和の日本はぜんぜん違う。自分たちの経験と子どもたちの現実を比較することは難しい。価値観も異なるだろう。

ところで、大人の思考とはどういうことかといえば、こんな風に「個々の違いや価値観を静かに認められること」かもしれない。

逆にいえば子どもの思考では、あらゆる差異をごちゃまぜにして自分の視点でしか語れない。価値観を他人に押し付ける。全体の幸福を優先するのではなく、自分の幸福を最優先にする。

大人の思考を持っているひとは、世界や社会の全体を俯瞰できる。ときには全体のために我慢をする。さらに自分の責任によって、すべきことを冷静に行動に移す。

大人であるならば「大人はずるい」「大人はダメだ」とは言えないはずだ。なぜなら「大人の当事者」なのだから。

「大人はずるい」「大人はダメだ」などという部外者の言葉を使って批判している限り、その彼または彼女は、子どもから抜け出していない。どうしようもなくお子ちゃまだと思う。

ほんとうに自分自身が大人であるなら、ずるいこともダメなことも認めた上で、じゃあどうするか、耐えるのか変えるのか考えて次の行動を起こす。

社会がダメだ、政治がなっていない愚痴をこぼすより、アクティビストや起業家になり、変革の一歩を踏み出すのが大人だ。そこで怖気づくならば、大人の当事者意識に欠けると思う。安全な場所から石を投げるのは子どもであって、大人は石を投げないし、投げるひとをやめさせる。

その意味では、小学生や中学生にも大人はいる。立派な社会人や政治家にも子どもはいる。タレント議員には何も活動をしないまま辞めてしまうひとがいるらしいけれど、もう少し大人になったほうがいいんじゃないか。

ということを、まだまだ子ども成分48パーセント、52パーセントぐらい大人の自分にも言い聞かせたい。反省。もう少し大人になりたい。

大人はしんどい。つらいものだ。想像していたよりもずっと子どもっぽいし、とことんダメだったりもする。けれどもそのすべてを認めて、上機嫌で生きていくのが大人だ。髭を生やすとかタバコを吸うとか、酒を飲むとか高級車を乗り回すとか、スーツを着るのが大人ではない。外側だけ大人になっても意味がない。

子どもたちは、どんどん大人に成長する。その未来の芽を潰すのではなく、すくすく伸ばすことが大人たちの役割。

そして子どもの特権とは、まだ見ぬ未来に想像を膨らませてワクワクできること、何度でも失敗できることではないかと考えている。

2024.05.05 Bw



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?