見出し画像

記号と感情、マル(句点)の存在価値。

21世紀の現在、さまざまな強い物言いに対するハラスメントが批判されるようになった。世の中にはしんどい問題がたくさんある。そのために人々は繊細になってしまったのかもしれない。

最近、驚いたのが「マルハラ」である。何かと思えば「仕事のメッセージで、最後にマルをつけると怒られているようで怖い」というものだった。

たとえば「遅刻します」とLINEで報告したときに上司が「承知しました」は問題ないが、「承知しました。」のように最後に句点(マル)を入れるとハラスメントと受け止められてしまうらしい。日本の未来が心配になった。そんなによわよわで大丈夫なのだろうか?

といっても、分かる気がする。LINEなどのメッセージでは絵文字を文末に置く。絵文字によって感情を補っている。しかし「。」の記号には顔がないし、ちっちゃい。したがって目を近づけても、句点から表情を読み取ることができない。

「ええっ?上司からこんなの送られてきたんですけど。このちっちゃい〇の絵文字って何?笑ってるの怒ってるの?顔がないから分からないよ。怖い。」と思うのかもしれない。

最後に「!(エクスクラメーションマーク)」を付けるメッセージも多い。あまりにも「!」が多すぎると、ニーチェの文章みたいだ。

勢いがあって元気がよさそうではあるが、うっとうしい。このひとは筋トレしながら「はっはっはー!今日も元気だ!運動の後の飯がうまいぞ!」みたいなノリで送信しているんじゃないかと感じる。

ひょっとすると送信者は『鬼滅の刃』の煉獄さんなのかもしれないが、もう少し穏やかでいい。エクハラ(エクスクラメーションマーク・ハラスメント)もありそうだ。元気がなくても大丈夫な社会であってほしい。

話を句読点に戻すと、正直なところ、文章の最後に「。」がないと脱字かな?と勘繰ってしまう。文章がだらだらと続いて、しまりがない。書き手の立場としては、おさまりが悪い。

句点について考えをめぐらせているうちに浮かんだのは「現代は、境界をあいまいにする社会なのかもしれない」ということだ。

リモートワークの働き方は、仕事とプライベートの時間と空間の境界をあいまいにする。また、仕事の連絡や情報共有に使うLINEは、家族や友だちとのチャットにも使う。

会社に行くときは、ビジネスカジュアルという名のほとんど自宅と変わらない私服だ。オフィスはフリーアドレスで、パーテーションによって同僚と区切られているわけではない。創造性を発揮して生産性を向上させるために、猿山のような遊び場を設けた会社もある。お菓子もいっぱいある。

そんな仕事なのか遊びなのか分からないボーダーレスな仕事の生活様式に慣れてしまうと、何かをきちんと分けることに抵抗を感じるのかもしれない。

句点は文章を区切るためのものであり、ばしっと内容を分断する。一文一義と言われるように、ひとつの文章にはひとつの意味が望ましい。言い切ってしまうことで論旨が明確になる。

ただ日本人には、あらゆることをあいまいにしがちな傾向がある。「いいとは思うのだけれど」のように語尾や結論をぼやかす。いいのか、ダメなのか、はっきりしてほしい。

何かを強く言うと批判されるから、自己防衛のためにも、あっちにもこっちにもいい顔をする。気遣い上手が行き過ぎて忖度した結果、何を言いたいのか、分からないような表現も多い。

その代表的なものが政治家の言葉だろう。幅広く公正に世の中を見渡す視点は大切だとは思うけれど、それだけでは何も伝わらない。誠実に何かを伝えようとしていない。

政治家のような狡猾な大人たちのまねをするから、子どもたちの文章にまで忖度が生まれる。「これは親に読まれたくないから、こうしておこっと」というように、思ったこととは違うことを作文に書く。「こう思われたいから、こう書こう」もある。読み手を利己的な観点から過剰に意識する。評価ばかりを気にする。いかにも政治的だ。

持論では「文章とは、書き出しから句点まで生きること」と考えている。

長文であっても短文であっても、それぞれの文章が大切な生命を宿している。読点(、)とともに句点は文章の呼吸であり、書き手の息づかいを伝える意義がある。文体と身体は密接に関わっていて、ちっちゃなマルであったとしても大切な存在だ。マルだって大切にしてほしい。

文章は時代を反映し、そのひとの生きざまが表れる。だからといって強く生きろとは言わないし、これだから若いひとたちは、と嘆こうとも思わない。むしろ、あまりにも繊細が過ぎると生きにくいのではないのかと心配だ。文末の句点のような小さい○に怯えていないで、もう少し鈍感になって気楽に生きてほしい。

一方で、絵文字や読点などの記号、音引き(-)などを含めて、文章表現における細部のこだわりは大切である。

場合によっては「。」を付けることで怒りを表現するとか、抗議の姿勢を表明するとか、ポジティブな活用方法が可能かもしれない。

ちなみに仕事のメッセージの問い合わせで「準備は大丈夫ですか?」のような質問をされると、最後の「?」に圧を感じる。クエハラ(クエスチョンマーク・ハラスメント)といえるかもしれない。

ささやかなテクニックではあるが、穏やかに要求するときには「いかがでしょうか。」のようにハテナをやめると柔らかい印象になる。

逆に何度連絡しても返答のない場合には「いかがでしょうか?」とハテナを付けると催促の意図が強まる。ステイタスが変わって、目が笑っていない状態になる。もちろん鈍感なひと、あるいは多忙なひとは、文末の微妙な変化など気付かないから、相手によっては具体的な指示をする必要がある。

マルハラから始まり、エクハラ、クエハラまで考察したが、だいたいこういう造語は、都市伝説のように誰かがてきとうに作っているのではないか(あっ自分も作ってしまったのかも?)。ハラが多いと、ハラハラする。なんでもハラスメントにすればいいというわけではない。

ところで、タイトルに「。」をつけている自分のエッセイは、ひょっとしたら「怒っているみたいで怖そう」と思われているのでしょうか。

怒っていないので大丈夫です。

2024.03.01 BW


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?