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「ソーシャルワークの暗黙知」のほうへ

「いや高梨さん、何か独自のやり方があるんじゃないですか?」
「ごめんなさい、本当に、自分でもわからないの」

 ウソではない。
 でも、口にできなかった思いもあった。
 ――だって、記述の方法論がどこにも用意されてないじゃない。
 ――仮に私が言語化を試みたら、あなた、わかろうとしてくれる?

 先日、認知症発症を「発見」された単身生活者の初期支援について問われたときのことである。どんな風にやってるんです?と訊かれ、最初は説明を試みた。「まず覚えてもらうため、週1~2回は訪問しますねえ。あと毎回同じ服装で行きますね」(私はいつも作業着だが)。「メインの金銭管理支援とは関係ないことのためでも訪問します。ゴミとか、携帯電話とか。そうじゃないと<あなたを大事に思ってるの>が伝わらないというか…」
 そこまで話し、窮してしまった。それ以上は、一般化して語れない。症状は一人ひとりまるで異なるし、同じ人でも波がある。一般化して語れるほど多くの人を支援してきたわけでもない。
 「…あの、私、被害妄想の強い人の支援ってやったことがないの。みなさん、なんだかんだでこちらを信じてくれて。こちらが<あなたが大事>って思ってることが伝わったらいいなとは思ってるけど、実際に相手がどう受け止めてるかはわかんないし…」
 これもウソではない。
 でもやっぱり、口にできなかったことがあった。

現象学風の記述、あるいはマクシム

 ――本当は、たとえばこんな風なの。

 相手が私に視線を向ける。
 その視線は、例えるならバトミントンのシャトルのようにスーッと放物線を描き、あるいはビシッと直線的に、質量をもって私の胸のなかに入ってくる。私は胸のなかにある「手のようなもの」で――場合によっては手首のスナップで回転を利かせ――勢いを殺しながらフワっと受け取る。すると、そのシャトルのようなものは細かい粒子に崩れる。その粉のような粒子は、私の胸から上の方へと拡散していく。拡散した粉は、私の胸から上の部分に作用し、私を動かす。
 私は首をちょっとかしげて、やや下から相手に視線を向け返す。目標点は相手の顔の15cmくらい前だったり、相手の目の3cm奥だったりする。相手の胸のなかにボンヤリした球体を感知していて、その球体の状態に応じて目標点が定まる。
 私は視線を投げ返すと同時に、自分の口角が少し上がるのを感じる。

 私の「独自のやり方」。上記のようなコンマ秒レベルの内的なナノプロセスは、このように現象学風にしか表現できない。内的な過程なのでエスノメソドロジーではアプローチできない。さらに、普段は自動的に身体がやってくれている作業なので、意識化しようと注意を向けないかぎり、泡のように次々と消えていく。時間の流れのなか、刻々と消えていく。
 意識のほうは相手の話に注意を向けつつ、どう解釈するのが妥当か?とか、過去から未来に向かって状況はどんな動態にあるのか?とか、まだ話題にのぼっていない登場人物はいないか?とか、問いを生みだし、その答えをさぐる触手をさかんにうごめかせている状態だ。
 これでは「事業化」の「起案」をして「予算」を組むことにも、「人材育成」にもつながりようがない。だが私にとっては、こうした身体的に自動化されたコミュニケーションのナノプロセスと、それを基盤として初めて可能となる言語を通したコミュニケーションのミクロプロセスという二重性こそ、「独自のやり方」のエッセンスなのだ。
 一般に「信頼関係の構築」「ラポールの形成」と呼ばれるものは、私にとってはこれらのナノ単位のやりとりを積分した結果にすぎない。だからソーシャルワーク実践をめぐる議論のまえで、いつも立ちつくしてしまう。なぜそんなに大ざっぱに「信頼」を語れるんだろう?
 だから、私がより親近感を抱くのは、アカデミックな知識に支えられた議論より、ローカルな実践現場で語られるマキシムだったりするのだ。

 たとえば。

考えるな、感じろ!
  ブルース・リーではない。10年以上前、某生活保護担当課のケースワーカー(生保CW)のあいだで語り継がれていたマキシムである。当時の生保CWは、事務職の男性が大半だった。大の大人が口にするには直球すぎるのか、失笑まじりとはいえ語り継がれていたのだから、大切な言葉と受け止められていたのだろう。時は流れ、課にはこの言葉を知る人もほとんどいなくなった。そして生保CWの半数ほどは福祉職になった。
 私はこのマキシムが直観的に、真実の一端を照らしていると感じてきたが、なぜなのかを説明できないまま時間ばかり経ってしまった。人間という生き物である以上、福祉の現場人も常に何かを感じている。それが「考えるな」とセットであるとはどういうことなのか。

EPICモデルという補助線

 ヒントをくれたのが、ツイッターで紹介していただいた、バレットさんのこの本だった。少し長くなるが、まず説明を試みる。

 従来は、脳にはさまざまな情動をつかさどる部位が実体として存在するとされてきたのに対し、そのような部位は存在せず、情動は脳が不断に構成しているとする理論を提示する。フォーカスは「情動」にあるものの、「脳はどのように意味を生み出すのかを説明する統合的な枠組み」(p.192)を扱ったグランドセオリーの書と読むこともできる。脳・神経科学に縁遠い私にもわかりやすく書かれていた。オススメします。

 名古屋大学の大平英樹さんによるとこれは、身体化された予測的内受容符号化モデル(EPICモデル:Embodied Predictive Interoception Coding model)と呼ばれるらしい。
大平英樹2017「予測的符号化・内受容感覚・感情」, 『エモーション・スタディーズ』3(1):2-12.
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ems/3/1/3_ES3-0002/_pdf/-char/ja

 [EPICモデルとは]近年の神経科学におい て優勢となりつつある予測的符号化(predictive coding)の概念,つまり脳はさまざまな階層において内的モデル(inner model)を構築し,それにより形成される予測と入力される刺激の相互作用からあらゆる機能を創発しているという考え方に基づいて,感情のみならず,知覚,運動,認知,意思決定などのすべての精神機能を統一的に説明しようとする企てである。

大平2017: 2

 この分野では「感覚器官から刺激が入力されると脳が反応する」という脳の「刺激-反応」的モデルは、完全に時代おくれになっているらしい。むしろ脳は「これから入力される刺激」を予測するモデルを構成しているというのだ。それを使って予測した「これから入力される刺激」と、実際に入力された刺激とのあいだのズレ(予測誤差: prediction error)を計算する。それが「知覚を能動的に創発」するというのだ。この働きを「予測的符号化」という[大平2017: 2]。
 脳が予測するという話はさほど目新しくもないだろうが、バレットさんたちが斬新とされるのは第一に「視覚や聴覚などの外受容感覚(exteroception)や運動の知覚などの固有感覚(proprioception)だけでなく,内臓や血管など身体内部の感覚である内受容感覚(interoception)も,こうした予測的符号化により成立していると主張する」点にある[大平2017: 4] 。つまり胸がドキドキする、顔がほてる、胃が重いといった内受容感覚も「これから入力される刺激」の予測のもとで生みだされるというわけだ。

 なぜか。「生体は恒常性(homeostasis)を保って生命を維持し,必要に応じて運動するために,身体状態を適切に制御する必要がある」ためである[大平2017: 4] 。
 大平さんの挙げた例[大平2017: 6]を踏まえると、次のようなことだ。
 通い慣れた道で、突然蛇に出くわす。その瞬間、視覚野で大きな予測誤差が生じる。「普段と違う~!予測モデルを修正せよ、ヘビだ~!」
 ヘビを視覚的に知覚するとともに運動野に予測誤差信号が送られ、運動野でも内的モデルが更新される。「予測モデルを修正せよ、逃げる準備~!」
 その結果、骨格筋や循環器の作動が変化する。「骨格筋、走る準備だ!循環器、酸素を大量に送り込む準備だ!」
 身体がスタンバイする。筋のこわばり、心拍や血圧の上昇などが知覚される。そして最後に、飛び上がる、逃げるなどの行動が選択される。
 生存のためには必要に応じて運動せねばならない。だから身体は、このように制御されている。
 そして筋のこわばり、心拍や血圧の上昇の知覚。この知覚の束からなる感覚を、人は「動揺」や「恐怖」の情動として経験する。

 人は経験を通し、その知覚のまとまり――バレットさんは「インスタンス」と呼ぶ――をパターンとして統計的に学習していく。「あ、この感じ、以前にも経験したな」という具合だ。
 同時に人は、他者との交流を通し、文化のなかでその「感じ」がどのようにカテゴライズされているかを学習し、自らのものにしていく。これについては、理論的立場は異なるものの、同じく脳科学をベースにした他の著書にあった例がわかりやすい。

 大人と子供の会話である。心を動かすような楽しいことが、目の前に迫っている時――素敵なショウの開幕を待っているとしようか。
 大人が子供に「ワクワクしちゃうね」「ドキドキしちゃうね」と言う。
 この子はそれまで、ワクワクもドキドキも、言葉としては知らなかった。
 ここで、この子供が覚えるのは、言葉であろうか?それもある。胸の内に何やらうごめいているものに名前が与えられたのである。[略]
 直接的・瞬間的に、「ワクワクする、そうワクワクするね」となるのであろう。胸の内にあってうごめく、なんだか分からないものに、名がついた。同時に、それが「私」のワクワクする気持ちになり、これがこの子の生涯の財産になる。さらに、この一瞬の後にはそれが人類同士の共通の交換可能な記号になって、流通しはじめる。

計見一雄2006[1999]『脳と人間 大人のための精神病理学』講談社学術文庫:188-189.

 現象学風の記述に戻って考えてみる。
 現実には、相手の視線が「バトミントンのシャトルのように」「質量をもって」「胸のなかに入ってくる」はずがない。だが私にはそう感じられるのだ。これまでは、この矛盾の前に立ちつくすばかりだった。

 しかしEPICモデルに基づけば、次のような解釈も成り立つ。

 相手が私に視線を向ける。
 その瞬間、私の脳は何かを予測する。内需要予測である
 何が予測されているかは、私の意識では感知できない。意識は予測よりずっと遅れて生起するからだ。
 その予測に基づき私の脳は、次に来る相手の行為を知覚するスタンバイを整える。やはり何が起きているかはわからない。微細に血管が拡張するのか。微量のグルコースが筋肉に供給されるのか。
 その結果生じたことを、ようやく私は内受容感覚として知覚する。
 しかしその知覚のまとまりには、まだ名前がつけられていない。言葉にすれば「例の、あの、この感じ」止まりなのである。

 そう考えてみると「考えるな、感じろ!」の意味がより明確化する。「胸の内にあってうごめく、なんだか分からないもの」に「葛藤」「躊躇」といったカテゴリーをあてはめるな。
「胸の内にあってうごめく、なんだか分からないもの」に、無理に名前をつけようとするな。そのまま、それをそれとして感知せよ
 そういうことなのかもしれない。

ソーシャルワークの暗黙知

 なぜ「なんだか分からないもの」のまま感知せねばならないのか。
 そうしないと間に合わないからである。
 内的なナノプロセスの時間スケールが1秒24コマだとすれば、思考の時間プロセスは紙芝居レベルだ。1秒24コマのコミュニケーションが展開する場では、ソーシャルワーカーはその速度に合わせて対応せねばならない。

 相手が私に視線を向ける。私は何かを感知する。
 「これは葛藤?躊躇?」と考えカテゴライズしようとしているうちに、こんどは相手がその様子から何かを感知する。こうなるとコミュニケーションの方向感覚は失われる。<あなたを大事に思ってるの>を伝えるというゴールはおろか、どこに向かっているかがわからなくなってしまうのだ。

 では、どうやって追い付くか?
――人それぞれのやり方があるのだろう。

 冒頭の現象学風の記述は、少なくとも私の場合、思考を経由せず――思考リソースは別の作業に充てられている――「胸の内にあってうごめく、なんだか分からないもの」を疑似的な体性感覚に変換することで、コミュニケーションのナノプロセスに追い付くやり方を採用していることを示唆する。
 相手の視線を「バトミントンのシャトルのように」「質量をもって」「胸のなかに入ってくる」ものとして知覚することで、思考を経由せず身体で反応するのだ。
 これをどのように習得したかは、自分ではわからない。経験を通し、私の脳がパターンとして統計的に学習していったのだと思う。

 資格の種類や有無、制度に関する知識、ソーシャルワークの歴史や理念に関する知識とは別に、現場に身を置き経験を重ねることで習得される何かがある。それは言葉にならないものであり、言葉を飛び越えたショートカット回路を開くことによって、ソーシャルワークのプラクティスの基盤を形づくっていると私は考える。
 生まれたときからソーシャルワーカーである者はいない。それぞれのショートカット回路は、ワーカー個々人の認知特性やそれまでの人生のなかで育まれた「個性」の影響下、現場経験を重ねることで育まれていくのだろう。
 専門教育とは異なる場で育まれ、かつソーシャルワーク実践を基盤づける、言葉を飛び越えたコミュニケーションのショートカット回路。
 ソーシャルワークの暗黙知。

    ーー本当は、こんな風に思ってたの。ごめんなさい。

 語り得ぬものについては沈黙しなければならない。
 だが、語り得ぬまま、沈黙のうちに展開する過程もある。と思う。

(おしまい)