【備忘録】昨日、こぼれた光について。
これって、noteに載せてましたっけ。
忘れちゃった。
とかなんとか。
それらしいこと(←何らしいんねん?)を呟いてたり、いっそ、アカウントがあることも忘れて、放置していたり。
よく知らない間に制限ができたんだとかなんやらで、「スレッズやらんの?」と訊かれた週末。
そう、threads。スペル合ってるかな。
まーた。
まーた、なんか始まったんかい。あんたらも飽きん人やな、とか、ええ加減な解答でしれっとかわしつつ。もー、どんだけ増えるんや、そーゆーの。きりがない。
とは思うものの、一晩で3000万もの新規アカウントが登録されたとか、なんか、そんな話でしたね。
新しいSNSの発生を待っていたのか、既存SNSに萎えて避難所になったのか、そのどちらもが重なっているのか。
きっと、また、かまってちゃん(さんたち)が大量に流入してきて、いざ、アカウントを作ったら、かまわなくてはならない状況になるだけ(←あらゆるネットメディアで経験した気がする)。
おっそろしい。
やだやだ、もういい。関わりたくない。
SNS、ネットメディア。これの発生と隆盛は、新たな問題(と言っていい)、「承認欲求」と言い換えられる過剰な自意識の発生源になったように思う。人なので自意識、意識はあって当然だけれど、それは満たされなくてはならないもの、というような、ひとつのコンセンサスが得られたように、それこそ、猫も杓子も、発信する時代になってしまった。
作家の奥田英朗さんは、以前、「自分なんて勘定に入れてはいけない」という旨のことをエッセイに書かれていたけれど、時代がどう変化するにせよ、その意見はおそらく正しいのだと思う。
欲しい情報の1つの閲覧するために、本来は不要な情報が50くらい流入してきてしまう。しかし、その不要であるはずの50が必要なのだと錯覚をしてしまうのだ。
それって、多くの場合、あんまり幸福ではないのだと思う。
それは多くの場合、不要を要と錯覚させるための産業なので、どこを見ても、「羨ましい他人の姿を見かける」ことになってしまう。それが動機に作用する場合もあるけれど、羨まれる自分になるための作為、虚構も生まれ続ける。原型を失くすくらいに加工された顔を「可愛い」と持て囃すことの、もはや、悲しみ。それを言わないと集団から逸脱してしまう、相変わらずのムラ社会、群体意識。おそらく、仲間外れにする誰かをつくるための、試金石。踏み絵。
いつまでそんなことをやっているのだろうと思っていた。
……意外に廃れませんね。
threads(2度目のスペル合ってるのかな)がどうなるのかは知らない。数年前、友人に「次のSNSは文字情報メインのものになるんじゃないか」と、ある種の予見をしていたのだけれど、果たして、そうなるのでしょうか。
僕は、とりあえず、様子見。きっと、ポストをチェックしたくなる人たちも参入してくるだろうし(たぶん、レ点ついてる人たち)、ロム専になって、たまーにチェックしようかな、くらいには思っています。
難しいのは、時代性、時代の感覚から離れないためには、こういうことにもアンテナを張ってなきゃならない、ということなのかもしれませんね。
とか、なんとか。それらしいことを綴って、本日はこれにて閉演でございます。ほんじゃのー。
photograph and words by billy.
サポートしてみようかな、なんて、思ってくださった方は是非。 これからも面白いものを作りますっ!