見出し画像

【備忘録】昨日、こぼれた光について。


死に切れず、そいつは沈みきらずに浮かびもしない、
流されたいのに、いまだ離れぬ魂が、
消えてゆくのを拒み続けた、
踏みつけて、そのやわな白骨を、二度と戻らぬように火を点けて、
あぶくみたいな魂を、残るその痕跡を、
見送ろうと俺は決めた、
今夜、おまえみたいな肉を食べ、明日にはすべて忘れてやるさ、

©️ビリー

 これって、noteに載せてましたっけ。
 忘れちゃった。

 とかなんとか。
 それらしいこと(←何らしいんねん?)を呟いてたり、いっそ、アカウントがあることも忘れて、放置していたり。
 よく知らない間に制限ができたんだとかなんやらで、「スレッズやらんの?」と訊かれた週末。
 そう、threads。スペル合ってるかな。
 まーた。
 まーた、なんか始まったんかい。あんたらも飽きん人やな、とか、ええ加減な解答でしれっとかわしつつ。もー、どんだけ増えるんや、そーゆーの。きりがない。
 とは思うものの、一晩で3000万もの新規アカウントが登録されたとか、なんか、そんな話でしたね。
 新しいSNSの発生を待っていたのか、既存SNSに萎えて避難所になったのか、そのどちらもが重なっているのか。
 きっと、また、かまってちゃん(さんたち)が大量に流入してきて、いざ、アカウントを作ったら、かまわなくてはならない状況になるだけ(←あらゆるネットメディアで経験した気がする)
 おっそろしい。
 やだやだ、もういい。関わりたくない。
 SNS、ネットメディア。これの発生と隆盛は、新たな問題(と言っていい)、「承認欲求」と言い換えられる過剰な自意識の発生源になったように思う。人なので自意識、意識はあって当然だけれど、それは満たされなくてはならないもの、というような、ひとつのコンセンサスが得られたように、それこそ、猫も杓子も、発信する時代になってしまった。

 作家の奥田英朗さんは、以前、「自分なんて勘定に入れてはいけない」という旨のことをエッセイに書かれていたけれど、時代がどう変化するにせよ、その意見はおそらく正しいのだと思う。

 欲しい情報の1つの閲覧するために、本来は不要な情報が50くらい流入してきてしまう。しかし、その不要であるはずの50が必要なのだと錯覚をしてしまうのだ。
 それって、多くの場合、あんまり幸福ではないのだと思う。
 それは多くの場合、不要を要と錯覚させるための産業なので、どこを見ても、「羨ましい他人の姿を見かける」ことになってしまう。それが動機に作用する場合もあるけれど、羨まれる自分になるための作為、虚構も生まれ続ける。原型を失くすくらいに加工された顔を「可愛い」と持て囃すことの、もはや、悲しみ。それを言わないと集団から逸脱してしまう、相変わらずのムラ社会、群体意識。おそらく、仲間外れにする誰かをつくるための、試金石。踏み絵。
 いつまでそんなことをやっているのだろうと思っていた。
……意外に廃れませんね。

 threads(2度目のスペル合ってるのかな)がどうなるのかは知らない。数年前、友人に「次のSNSは文字情報メインのものになるんじゃないか」と、ある種の予見をしていたのだけれど、果たして、そうなるのでしょうか。
 僕は、とりあえず、様子見。きっと、ポストをチェックしたくなる人たちも参入してくるだろうし(たぶん、レ点ついてる人たち)ロム専になって、たまーにチェックしようかな、くらいには思っています。
 難しいのは、時代性、時代の感覚から離れないためには、こういうことにもアンテナを張ってなきゃならない、ということなのかもしれませんね。
 とか、なんとか。それらしいことを綴って、本日はこれにて閉演でございます。ほんじゃのー。

photograph and words by billy.

サポートしてみようかな、なんて、思ってくださった方は是非。 これからも面白いものを作りますっ!