見出し画像

学術会議の一件 赤点スレスレになるだろうマスコミ報道

学術会議の任命で、官邸が一部ノーのサインを送った。イエスマンだけで固めようとしているのかと、マスコミは叩きまくっている。叩くとってもただ叩いているだけにしか見えない。

日本は三権が互いに牽制しあって「秩序ある平和」を築いている。しかし官邸は行政(官公庁)と立法(国会)の二つを抑え込んで「閣議決定」を出せる曖昧な位置にある。その官邸のやっていることが妥当かどうかを第三者の見方で判断するのが「学術会議」である。人間は組織もしくはシステムを恣意的なものにしたがる習性を持っている。IQが飛び抜けてよくても、世界的にトップクラスの大学を出たものでも、理性的な国家システムの運用には必ず恣意的なものが含まれる。だから本当に恒久的に続く平和な国家に貢献するものなのかどうかを、第三者の審判に委ねなければならない。学術会議の意義というのは、政治家の野性的本能の阻止という、極めて原始的な部分の見張り番なのである。

今回弾き飛ばされた学者は、政治の流れをディフェンスする論をひつ下げている。逆に言えば学術会議の人選は平等かつ妥当なものだったことが証明付けられたことになる。それはそれとして、あからさまに爪弾きにしたものだから話は「学問の自由」にまで波及した。

学問の自由は剥奪はされていない。正確に言うなら「学問の不平等」である。明確に「いま」の国民にとってご利益のあるものだけを重宝し、それを妨げるものを全て「軽蔑」するものだ。それを長期的展望に立てば、軽蔑はやがて妨害になり、国民感情によって「悪」とみなされる。官邸は口笛を吹いていれば、別に官憲が干渉しているわけではないので罪作りなことはしていないと詭弁を弄する。この唯物主義の急進的だったのが戦前の軍国主義であり。先述したとおり緩やかなのが「いま」である。ここにマスコミは言及しない。

その理由はマスコミでさえもが、「なんでもいいから早く景気をよくしろ。」と暗にメッセージを送っているからだ。その証明として「ねじれ国会」という言葉をマスコミが使った。本来二院制は双方を牽制し合うためにできた。だから「ねじれ」というのは本来なら健康なはずである。ところがマスコミは法令がなかなか出せないという点で、極めて非合理的とみなし「ねじれ」と批判した。

そんなマスコミが、今回の件をどう報道するか。どうクローズアップするかで、アカデミックな視点での成績が決まる。おそらく予想としては5段階の中で赤点スレスレの「2」だろう。どこそこ大学の偉い教授なんてのを出してきても、今流行りの評論家を登場させても、そいつはマスコミの食客だから刹那のご都合主義におもねるほどのことしか言わない。こういったバカどもの話を「バカ」と論証せねばならないのが現在であり、そのために西洋哲学を勉強せねばならなくなった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?