ポルノグラフィティの逆読み②エロティシズムとの違い

日本にとっての「ポルノグラフィティ」があるのかと言うと、残念ながらい。いや正確に言えば極度のマイノリティになったと言うべきだろう。

ポルノフラフィティに類する「エロティシズム」というのがあるが、それは「私」が森羅万象において性的なものと感じる衝動である。静的なものであり、時空を超えた謎めいた感情である。しかし「ポルノグラフィティ」は「今」に重きを置いた社会のムーブメントでいかようにも形が変わる動的なものである。エロティシズムの探求は主観的感情であるから人文学分野で主に探求され、ポルノグラフィティの探求は社会との関係性だから社会学での考察になる。

両者の違いを具体化するとこうなる。

例えばランジェリーを身に着けた女性の写真があったとする。肌の色感やランジェリーと肉体のバランス、もしくは肉体とランジェリーを別々にみなすなど、そこに「ある」女性を、多種多様な「見解」によって発動する強い性的衝動がエロティシズムと言えよう。つまり女性は「作品」であり、アバンゲールはエロティシズムを表現する一つとみなされる。「恒久的」「無限」という言葉とリンクする。

一方でポルノグラフィティはこの女性の否定的存在を優遇する。「なんてふしだらな」「語るだけでセクハラ」という言葉がウェルカムなのである。その否定の度合いがきつければきついほど、その社会は文化なんぞ育たない無毛地帯と指弾する。つまり女性は社会のリトマス試験紙のような「記号」であり、レスポンスをパラドックスとして再び投げ返す。アプレゲールの一つの形として存在する。「刹那的」「形あるもの」という言葉とリンクする。

両者は性的なものを取り上げるので同じだが、立ち位置が違う。ではなぜ日本にはポルノグラフィティは存在しないと言うのか。それは日本のアダルトサイトのものが、日常社会の中でうごめくエロティシズムを暴露するのみに留まっているからである。

アメリカのポルノグラフィティは、撮影されている場所は勿論日常の風景であるが、互いのやりとりが脱日常なのである。セックスシーンの直前から、「とにかく求め合う人間がそこにいるから社会はどきなさい。」という社会の否定と、登場する人間が単なる人間に過ぎないという2つのメッセージを盛り込む。一方日本のアダルトものは、セックスシーンは日常社会の関係からどうしても抜け出せない。いやそれどころか連れて行っている部分がある。そのためにそこに描かれているものは何かと言えば、詭弁的論理でいけば、「解釈に困るためにあえて言えばのエロティシズム」という二番煎じにもならないものなのである。

セクシャルシーンが社会に対して挑戦している。というのは恐らくピンク映画だけだろう。続々と映画館が店じまいしているのだから、極度なマイノリティーとしか言いようがない。勿論アダルトコンテンツにポルノグラフィティの精神がない。と断言はできないが、大半が「解釈に困るためにあえて言えばのエロティシズム」なのだ。

では日本のポルノグラフィティの欠落は何を意味するのか。それは次に回したい。

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