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死にたいって言うけどね

希死念慮ってなんだろう

希死念慮(きしねんりょ)とは簡単に言えば「死にたいという願望」のことだ。うつ病の患者によくみられる症状である。

私の運営しているとあるSNSの紹介文には「希死念慮の強い方はかえって心の負担になる可能性がありますので閲覧にはご注意ください」との表現を入れている。
ここのポイントは、希死念慮の「ある方」ではなく「強い方」という部分だ。うつ病の患者の多くは、死を考えたり自分の存在価値を見失ったりしたことがあると私は考えている。

つまり、希死念慮は「ある/なし」の2択ではなく、程度の問題。グラデーションだと感じる。「希死念慮のある方は閲覧お断り」なんてしてしまったら、ほとんどの人が入れなくなってしまうと思う。管理者である私だって「希死念慮がない」と自信を持って言うことはできないのだ。

私は初診時に心理検査を受けた。たしか「ここ2週間で〜だと思ったことはありますか」という質問がいくつもあり、それぞれについて①常に思う、②よく思う、③ときどき思う、④思わないの4択から選ぶ形式だった。
私はスイスイとペンを走らせた。だって「ここ2週間で何をしても楽しくないと感じることがありますか」とか、ぜーんぶ迷わず①だったから。

しかし最後の質問だけ、手が止まった。「ここ2週間で死にたいと思ったことはありますか」という質問だった。

受診の日まで死んだほうがマシなほどの苦痛に苦しみ、消えたいと何度思ったことか。こりゃ①か②を選ぶべきだな……。でも待てよ、自分が今消えたらどうなるのだろう。家族や友人は悲しんだり途方に暮れたりするだろう。会社の人も困ったり無駄な責任を感じてしまう人もいるかもしれない。
そんなことが頭にぶわーっと湧き出てきて「あ、私は消えてはダメだ。寿命は全うしなくちゃ」と思った。それに、ここで①とか書くと入院になっちゃうかもな、なんてことも考えた。だから私は「④思わない」に濃い丸をつけた。

その後の問診でも最後に希死念慮の有無を訊かれたが「いいえ、ありません」とはっきり答えた。
だけど、厳密には「ない」とは言い切れない。迷った末の答えなのだ。

死にたい気持ちをどうやり過ごすか

程度の差・時間による変化はあれど、うつ病患者の多くは死にたいという気持ちを抱えている。それをどのようにやり過ごして生き延びるか。それが重要だ。

どんなに苦しくても、生きていることが一番に大切

私は苦しいとき、ある人からかけられたこの言葉を思い出して、嵐が去るのをただひたすらに待つ。どうせいつか死ぬのだから、人生は壮大な暇つぶしだと……そう自らに言い聞かせて耐える。

以前の私は生のエネルギーにあふれていたと今になって思う。進学先は苦手な都会だったけれど、思う存分に学問に浸れる、その喜びを糧にスポンジのようにエネルギーを吸収していた。
やりたいことや将来の夢は特になかったけれど、きっと自分にしかできないことがあるはずだ、社会に出て誰かの役に立つのだ!!なんて思っていた。

けれど最近思うことは……

人間は必ずなにかを成し遂げなければならない責任があるわけではなく、ただ名もなき生き物として生きて、いつか来る寿命までやり過ごすのもいいのかなぁということ。やりたいことや夢を見つけなきゃいけない、確固たる意志を持たねばならないと思っていたけど、見つけられる人なんてなかなかいないし、たとえそれが見つかっても実現できる人なんてわずかだということ。

なすがままに流れに任せて生きていく。それだけでも生き物としての役割は十分に果たせているのではないか。それなのに人間は、責任やら意志やらを紐付けて人生を生きねばと考えているから苦しんでいるような気がする。

うつ病患者の話を聞いていると「死にたい」というよりは「消えたい」「いなかったことにしたい」という表現のほうがより実態に近いようだ。私の感覚もそれに近い。
でもそれって無理なこと。生まれてきてしまったからには、なかったことにはできないのだ。死が不可逆であるのと同様に、生もまた不可逆な反応なのだから。

希死念慮って結局なんなのだろう。「死にたいという願望」と冒頭に書いたが、それだと拾いきれていないニュアンスがあるのではなかろうか。
生き物としての「生」を止めたいわけではなく「人生」に縛られることに疲れている状態、つまり「希『人生』死念慮」なんじゃないかな。

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