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千葉妖怪伝説「その九 平将門公・魔界より復活(2)」

※今回の記事は前回の「その九 平将門公・魔界より復活(1)」の続編になります。

 平将門はこうして俵藤太によって討たれてしまう。そして永い眠りにつくのだが、将門を霊的に利用しようとする存在が出現する。徳川家康配下の怪僧・天海であった。

 幕府内部で秀忠一派や、崇伝との闘争を繰り広げながら次第に力をつけた天海は、将門の御霊を徳川幕府の霊的な守護にする事に成功した。つまり徳川幕府の鬼門を将門によって護らせたのだ。ちなみに裏鬼門の守護はは頼朝である。中心の徳川幕府を軸に、鬼門に将門の首塚、裏鬼門に頼朝の首塚、このレイラインは徳川呪術陣の機軸となる。


 なお将門の首塚の延長線上には、将門の胴塚がある。将門の首はかつて胴を求め京より飛来し、現時点(大手町)に落下したと伝えられる。生首は

「胴とつないでもう一度、戦をせん」

とのたまったと言われ、この生首が胴体を希求する怨念をエネルギーとして活用するために、胴塚を延長線上に配置した可能性は否定できない。

 ちなみに胴塚のある茨城県は今も帝都にとって忠実な下僕となっている。原子力発電所という現代の鬼も茨城県に配置されている点でもそうであろう。原子力という魔物を鬼門におくことによりコントロールしようとした形跡があるのではないだろうか。

 また「茨城」という地名も一説によると大和朝廷の遠征軍が抵抗する現地勢力(土蜘蛛らしい)を穴に追いやり、更にその穴に茨を投げ込み、煙でいぶりだして誅殺したという伝説から来ているという。

 この天海の策略は当たった。将門、頼朝に守られ、徳川幕府は実質社会でも、霊の世界でも確固たる地盤を構築する事に成功した。そして家康が死去する。天海は家康の御霊さえもレイラインに組み込んだ。北の守護を家康の御霊によって実地したのだ。つまり、日光東照宮である。

 こうして徳川の力が固まるのだが、家康、将門、頼朝には共通の敵があった。それは京都の朝廷である。3者共、天皇に対しては複雑な想いを持っておったようで、3者の朝廷に対する怨念が徳川300年という支配体制を構築したのかもしれない。

 一方、千葉県において、この連載でも紹介した「八幡の藪知らず」が将門の伝説地として知られているが、ここは将門の本陣の死門(仙道で言う鬼門)であるという説や、七人の影武者が眠っているとか、様々言われている。筆者も思うに、この場所は何らかの霊的なシステムの一環であると推測している。これは私の意見ではあるが、ある種のエネルギーの調整装置のような気がするのだ。将門の怨霊を徳川幕府がコントロールするために使用した。御霊操作システムのような気がしてならない。

 ちなみに「八幡の藪知らず」は、千葉から東京に侵入する千葉街道沿いにある。言い換えれば軍事的にも重要なポイントであるのだ。この藪知らずの近くには「木下街道(きおろしかいどう)」という街道がある。この道は千葉北部から南部に抜ける道である。かつて将門がこの道で南下し千葉街道を東(現在の東京)に進んだ事もあったであろう。

 だとするならば、「八幡の藪知らず」とは、将門の霊力が茨城方面から木下街道をとおり南下し、千葉街道につき当たり、帝都に侵入するという鬼門の守護力の逆流を断ち切るための仕組みかもしれない。

 つまり、過剰に放出される鬼門の御霊・将門の霊力を吸収するラジエーターの役割かもしれないのだ。

 であるならば、木下(きおろし)とは鬼卸(きおろし)という呪術であろうか。

 かつて私たち日本人は当たり前のこととして風水や陰陽道、御霊奉りを行った時代がある。その余韻は今も発動しているのだろうか。

ご注意:
この記事は、地域情報サイト「まいぷれ」で掲載されていた「千葉妖怪伝説」というコンテンツを転載したものです。記載されている内容は、当時のものですので、現在の情報とは異なる可能性があります。ご了承ください。

https://www.mpchiba.com/articles/289.html

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