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「作家と名乗れば作家になれるのか」問題についておもうこと

 さんざん芥川賞のお祭りに乗っかっておいてなんだけれど、賞レースという競技性をたのしむことはできても、「賞」による権威がもたらす力学についてはすごく苦手だ。芥川賞の予想はたのしい。だけど芥川賞がすべてじゃない。とでもいえばわりとありがちな話になるし想像もしやすいかもしれない。その想像でたぶん正しい。

 ずっと悩んでいることがあって、それは「ぼくは作家なのか?」ということだった。じつは「作家」を自称するようにしたのは去年からだ。それまでは文筆家とかライターとかそんな感じでぼかしていたけれど、早川書房のミステリマガジンに小さな批評を寄稿したとき、「作家」という肩書きで紹介してもらえた。それがちょっとしたきっかけで、同時に感じたのは「作家」と名乗らなければ「作家の仕事」はもらえないということ。肩書きなんて他人に決めさせればいいだけの話に過ぎないとはいえ、実務上の問題としてどう名乗るかによってもらえる仕事は変わってくる。だから「作家」と名乗ることにして、「たべるのがおそい」に短編が掲載されたことをデビューっていうことにしている。

 しかしながらじぶんで「作家」と名乗ったからといって、商業的な意味で他人が作家と見做してくれるかどうかはまったく別の問題だ。ぼくの場合でいえば、「作家のひと(比較的最近デビューしたひと)」はぼくを作家と見做してくれる。また、同世代やぼくよりも若い編集者の方もいちおうぼくを作家として接してくれる。でも、それはごく一部で基本的にあんまり相手にされないし、原稿を読んでもらえるみたいな話にはまったくならない。手元の原稿は没にすらなれず、原稿を渡しても(…シテ…コロシテ…)状態だ。次とかない。チャンスとか存在しない。このまま次を出せずに死ぬしかない。そんな状況だ。

 実績らしいものもたいしてないから仕方ないよなぁとおもうのでこのへんはもっとがんばりようがある。読んでもらうためにやれることはなんだってしなくちゃいけないともおもう。だけどひとつだけやらないと決めていることがあって、それは「新人賞に送ること」だ。

 新人賞というシステムじたいを否定するわけじゃないのだけれど(むしろある側面ですごく健全で公平なシステムだとおもう)、同時に「新人賞をとらなければ作家とはみなされない」という側面が強く感じられてすごく居心地が悪い。たしかに応募数2000とかをくぐり抜けるのはめちゃめちゃすごいことなのはちがいないし、実際にそれをくぐり抜けてデビューしたひとからしたらぼくみたいな存在なんて「なにいってんだコイツ?」みたいにおもえるかもしれない。小説はひとつ読むのにすごく時間もかかるし、そのためにもなんらかの「上質なフィルタリング」が必要なのもわかる。ただ、「それだけ」しかないのはどうなんだろうと、言いにくい立場ではあるんだけれどぶっちゃけおもう。新人賞を受賞するかしないか、その結果如何で実力的な差などほとんどない、むしろ比較対象にないようなひとたちがかたや作家になり、かたや作家とみなされないし名乗れもしない……という例はさんざん見てきて、このイチとゼロのほとんど絶望的ともいえる遥かな断絶(?)が、ぼくはとてもかなしくおもう。こういうのはほんとに嫌なんだけれど、いまじぶんが他のひととはちがったルートで「作家らしいもの」になれようとしているのをおもえば、新人賞という権威継承システムを経由せずにがんばることのは大切なんじゃないかともおもう。そうやって入口が広がれば、評価につきまとう権威を分散させられるとおもう。権威がもっと軽く薄くなればいい。心からそうおもう。せっかくちいさなところからポッと出てこれたのに、けっきょく大きくて重たい権威の力を借りなければ「業界のひと」に読んでもらえすらしないなら、ほんとに絶望的なことだとおもう。ここにある違和感が拭えない限り、文学賞には関わりたくないなとおもう。継承され、借り受けた「権威」をパスポートにしなければまともなやりとりひとつできないのは本当に嫌だしつらい。

まあそもそも、ぼくはそもそも新人賞なんてとれるタイプの書き手じゃない。そのことについていろいろ考えるところはあるんだけれど、それはここではいわない。ただ、今年はぼくが信頼できるひと/信頼したいひとにじぶんの原稿を読んでもらいたいという気持ちが強くある。いま、けっこう長い小説を書いているけれど、それはもしかしたら誰にも読ませないことになるかもしれない。それでもいいんじゃないか、という気持ちもある。ほんとうは作家になりたいんじゃない、小説が書きたい。なのになんで「作家」と名乗れなければいけないのか、最近はよくわからない。

 去年、鶯谷でしたトークイベントで、ぼくは「人生の悩みの9割はお金があれば解決する。しかし人生はたぶん残りの1割の悩みを徹底的に悩み抜くためにある」というようなことをいった。きょうここで書いたことはお金で解決する9割のほうである。

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