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日記(9月上旬):環境に支配されすぎる問題

 コロナ禍以降、コロナと創作の関係性のような話題をちらほら聞くのだが、これがとんと苦手ときている。数ヶ月前にあるジジイ作家が「コロナから目を背けられるのはSFか歴史小説くらいで、私は正面からコロナと戦う」云々などいっていたのが視界に入ってひどくうんざりしたものだが、ぼくとしては書くものと現代社会に直接的すぎる繋がりを持ち込みたくない気持ちが強くある。避けがたく存在するものとの戦いかたは、作家の数だけ存在するのだとおもう。
 というのも、ぼくにとって小説とは「意味」だけじゃない、むしろ「意味」ではないところに小説のよろこびがあったからで、そうした実作を変わらずずっと続けていきたいとおもうから。その爺さんのことはさておき、苦手なのは「コロナに対する我々」という主題だけじゃない。いろんなところで特集がガシガシ組まれまくっているジェンダー論や生きづらさなど、それ自体はもちろん重要な問題である一方で「偏って」いるとさえ感じてしまいうるほど過剰に流れてくる話題に、ひたすらなしんどさを感じるのだった。
 今月、SF要素のない青春小説(!?)中編を書いていた。一年前に60枚くらい書き進めていたもので、その続きを書いた。150枚くらいになった。ただ、その小説のなかで、登場人物の発言ひとつひとつに別の登場人物への加害の可能性がちらついてしまったり、そうした加害構造へ踏み込むならば遠い過去まで遡らなければならないという問題が出てしまった。もともと、その小説の時間的射程はかなり広くとっていたので技術的にその問題へ深く踏み込んでいくのは可能だし問題ない、だけれども、そもそもこの小説でぼくが探そうとしていたものはこれだったのか……という疑問が生まれた。小説を書きながら、その小説のなかだけで考えられることを見つけるのを期待していたけれども、ここで現れてきた問題は、いまぼくがいる環境から影響を受けすぎている。環境から影響を受け、それを自作に反映させるのは自然なことなんだし、ぼくもそれを前提に小説を書いているけれど、環境による影響が大きすぎてバランスが崩れているような気がした。しばらく、この小説は寝かせておこうと思った。また一年くらい。

 じぶんのアイデンティティとは!? みたいな問題について、考えても仕方がないのだとおもいつつ考えてしまう。人間だもの、とバカでかい主語でつぶやいても見たくなってしまうんだけど、ぼくはどういう作家なのか(とりあえず〝作家〟ということにして)、どういう顔して仕事をしていけばいいのか、ふと悩んだりする。
 ぼくはつい最近までじぶんのことを「SF作家」とは思っていなかったし、じぶんが書いているものをSFだとも思っていなかった。ジャンルに関しては属していないだろうけれど、あえて言えば日本では純文学なら仲間に入れてもらえるかも……とずっと思っていて、新人賞に応募していた時期もほとんどが五大文芸誌の賞で、それはゼロ年代の日本純文学が好きだったことに由来していた。けれどなんというか、時代はガラッと変わってしまって、いま純文学雑誌を見てもぼくが好きだった小説はそこにはないし、社会に直接響くような「意味」や「具体性」みたいなものが前面に現れてくるようになったと思う。しんどいな、と思って、ここ最近は仕事で必要なもの以外は文芸誌を読まなくなってしまった。いま文芸誌は売れているというけれど、その代償としてぼくが好きだった小説が切り捨てられてしまったような気がして寂しい。親を失ったような絶望だ。

 そして、じぶんが書いている小説をあらためて読み返してみると、自分自身も「意味」を書こうとしてしまっていたのに気づいてしまった。新型コロナウイルスの影響で作家にとって何が変わったのかみたいな問いがあるならば、リモートだったり人と会う頻度・形式だったり、そうしたものではなく、単純に「その場にいないひとの気持ち」に敏感になりすぎてしまうことなのではないかと思った。じぶんが気にもかけないような〝些細な〟ことで誰かが傷ついてしまうことかもしれなかったし、目の前にいるひとをリアルタイムで傷つけてしまうことばが生まれる時間に根差した構造なのかもしれなかった。そしてぼくは、そうしたものを一切書きたくないのだった。環境の大きな変化に伴って、少なくともぼくは「書きたくないものを無意識的に書いてしまう」という変化を受けた。

 あたらしく小説を書いている。
 SFなんだけど、これがすこぶる楽しい。
 SFというものがよくわかっていないので、ぼくが自作を「SF」と呼ぶとき、決まって作中に架空の数学・物理の理論を作って、それを中心にお話を作っている。小さい頃から数学の証明問題が好きだったし、二十代は丸ごとそんな空想に時間を費やしていたくらいだから、それが一番自然な思考法だと気づいた。架空の理論を作っているとき、小説を息苦しくさせる環境の圧力から逃れることができる。それでもその理論が物語として拡張されると、いまのぼくを取り巻く環境を反映したエピソードや思考、感情がやってくる。だけど、強いフィクションが一枚噛んでいることで、小説の内部と外部が対等のパワーバランスになっているような安定感があると思った。たぶん、ぼくはこうやってこれから小説を書き続けていく作家なんだろうなと思った。

 SF作家の友だちの多くはじぶんがSF作家であることに誇りを持っているんだと思う。最近はそれがとてもかっこいいことなんだという実感が湧いてきて、これからぼくもSF作家なんだ!と自信を持って言えるようにがんばろうとおもった。

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