【SF×美学】SF作家は分析美学者の問いにどう答えるのか?【8月23日 21時よりYouTube配信】5つの質問の回答

長いので事前に書いておこうとおもいます。

(1)SFとしてよいと思うのはどんな作品ですか?(SF作家はどのようにSF作品を価値づけているのか)

「SFとはなにか」を作家個人がどう定義しているかというところから話をはじめなければならないとおもいます。ぼくは正直にいってしまえば、なにを「SF」と呼ぶかをそこまで厳密にはじぶんで決めていなくて、現在「SF作家」として多くの方に認知していただいていることも、成り行きでそうなったと言わざるをえません。究極的に文芸ジャンルというのは単なるレーベルの問題でしかないというのがぼくの持論ですが、しかしたとえば「SFマガジンにお預けする原稿」といえば「だいたいこういうポイントは押さえなければならないだろう」みたいなものは持っています。したがって、以下の「SF」はそれについての話になります。
SFは、世界が展開される論理構造にフィクションの想像力が付与されたものだとぼくは考えています。そうしたとき、もっとも直接的かつ具体的に世界のありようを変質させることができるのが想像された科学だったり、社会構造だったりするのではないかと。それゆえ、SF作品はそうした作品群を主とした集合になるとおもいます。
ただ、架空の因果律で駆動する世界を書いたからといって、書かれていることが真実ではないとは言い切れない。真実なんてことばは疑ってかかるべき怪しさを持っているわけですが、少なくとも事実と真実は互いに独立の関係にあると考えています。現実世界では、事実を介して真実なるものが観測できるがゆえ事実に真実が内包される構造をとるけれど、それはひとつの特殊な状況に過ぎない。そう考えるとフィクションとは、一般化された現実ともいえるわけで、事実と真実を独立に扱いなおす行為です。たとえば歴史改変SFなどを見ればそれはよくわかるのではないかとおもいます。
SFとしてよい作品とは、(なにもSFに限らないことかもしれませんが)現実という特殊な場の外側に思考をいざなうような作品だと考えています。


(2)SFを書くことで、読者にどのような経験をもたらしたいですか?(どのような意図や動機から制作しているのか)

先の質問で答えた「SFとしてよい作品」は、ぼくが実作にあたるうえで座右においているものです。自作に対して特定の読み方を強いるようなことは想定していませんが、やはり上述のようなぼくの小説観に寄り添ってもらいたい気持ちは強くります。
より個人的な話をするならば、ぼくは小さい頃から数学と物理が好きで、学生時代までじぶんは科学者になるものだとおもっていました。それを二十代後半までほぼ信じて疑っていなかったのですが、研究にはどこか社会への実装プランを免罪符としていた側面があり、「学者になるため」に無益無害な研究が量産されているのを目の当たりにし、そして自分自身もまたそのような研究をおこなっていたことに気付き、じぶんは学者になれない人間だなとおもいました。同時に、どうしてこれほどに学者になりたかったのかもわからなくなってしまった。学会で発表されるのはある自然現象を説明する新たなモデルというのは少なく、実際は既存のモデルをちょっとばかり複雑な系に適用した「がんばればできる」ものばかりで、それがまったく役に立たないものだとは思わないけれど、しかし意味合いとしては研究者自身の履歴書を装飾する程度のものでしかない。でもきっとそんなこと、みんな承知の上でやっていて、そうしなければ生きていけないっていう現実がある。この人生を、といえば大袈裟ですが、自然科学のために費やすべき時間を、生きるための試行錯誤に費やさねばならないというのに、ぼくは耐えがたいものをかんじました。
ただ、作家の世界でもそれはそんなに変わらないかもしれません。ぼくにとって重要な小説であるリチャード・パワーズ「ガラテイア2.2」にはこんなことが記されています。

世界には小説があり余っている。高い金をもらって、この分野を不毛にしている作家もいる。

これまでほくが雑誌等で発表してきたもの、とりわけ直近の「花ざかりの方程式」は、短いけれどもそれこそぼくの小説観、表現に関して考え続けてきたこと、そしてぼくを自然科学の世界に導いてくれた唯一信じられるものを全力で書いたものです。複数の出版社の編集者に送り、しかしそのほとんどでまったく相手にされなかったため、作家としてやっていくのはもう無理だともおもっていたところ、現在の担当編集さんにギリギリのところで拾ってもらって掲載していただきました。
ただ、作品と離れたところでパワーズが作中で述べた皮肉に似たものをじぶん自身にもかんじました。究極的なことをいえば、ぼくはたとえ読者がひとりもいなくても、きっと小説を書くのを辞めることはできない確信があります。しかしそれでも世に出し、一定の評価を得る必要があると切におもうのは、そうしなければ生きていけないからです。これは非常に憎むべき感情で、ほんとうに自分本位でしかなく、どうして生きていなければ小説が書けないのかとおもいます。それだけじゃなく、ぼくには家族もいて、幼い子どもが2人いて、この子たちを父親として育てていかなくちゃならないし、なによりきちんと父親として生きて育て抜きたいとおもいます。そのためには小説を書く必要なんかなくて、むしろ邪魔でしかなくて、しかしそれでも小説を書いてしまうことがずっと苦しかった。いっそ小説や、表現や、自然科学に関するものを、じぶんを構成している重要な要素に対する愛着をすべてきれいに捨て去れてしまえたらどれほど楽だろうかと常におもいます。「花ざかりの方程式」とは、そんな小説です。現実であろうと、架空の世界であろうと、どこにいっても否定し難く存在するものを、結局は最後まで信じ抜きたいという衝動を小説という形式でしか書けないじぶんを省みる小説です。

それを読んだ読者になにをどう感じたりおもったりしてもらいたいか、実のところぼくにはよくわかりません。しかし、今のじぶんを形作る言語を、どんなにばかげたものであっても信頼して欲しいという気持ちは強くあります。主語が大きいの承知でいえば、小説家の言語をフィクションとして作られた技巧でしかないとは読んで欲しくない。そう読もうとする訳知り顔のひとたちに対する反抗心を、読者の方々と共有したいとおもいます。ただ、こうしたことを書いてしまった以上、今後じぶんが作家と名乗るのは難しいとおもいます。

(3)SFは読者に現実の世界についての知識・洞察・認知的能力をもたらせると思いますか? もしそうならそれは、SFとしての価値ですか?(SF作家はSF作品の認識的価値をどう捉えているのか)

これまでに述べてきたSFについての個人的な見解は、現実→フィクションへの移行の触媒としての「小説」でした。ではそれの逆が、現実にどうアプライできるかという点について、ぼくはまだ明確なものを持ち合わせてはいません。
ただ、知識・洞察・認知的能力については現実であってもフィクションの世界であっても、使用される身体の器官にさほど大きな違いはないとおもいます。現実には現実の体験としてしか感じたり考えたりできるものがあるように、フィクションの世界でもフィクションだからこそ感じたり考えたりできることがあると信じています。現実とフィクションの境界を取り払うことができるのは、現実側にいるフィクションに対峙する読者と書き手だけだとおもいます。

(4)SFの批評に求めることは何ですか?(SF作家はSF批評に何を期待するのか)

さいきんとある批評を読みましたが、作家をなめるな、とおもいます。

(5)これからのSFジャンルでどのような作品を読みたいですか?(未来のSFジャンルへの規範的な主張)

その小説が書かれた現在でなければ想起しえない作品を読みたいし、そうしたものをじぶんも書きたいとおもいます。

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