VTuberについて考える(追記)

先日下の文を書いてあらためて思ったこと、書ききれなかったことを書いていこうと思う。
以降、下の文(主に「VTuber"が"演じる」の項)を読んでいただいていることを前提とする。


VTuberがそこにたしかに存在する単一個人である、という前提/暗黙の了解を我々視聴者とVTuberらクリエイター側が共有することによって、はじめてVTuberが他の役を演じることがあり得る、というのがおおよその主張だが、これを「キャラクターを二重に纏う」と表現したい。

その例は上の記事で挙げたが、これはおおよそ二つのタイプに分けることができるだろう。
一つは森先化歩やカタシロReflectのPLのように、それを演じるVTuberのパーソナリティが役にある程度以上反映されているパターン。
一つは電音部(シブヤエリア)のように(あと周央サンゴの地獄学級会とか……ASMRのシチュボとか……)役とCVがまったく別のもののように思われるパターン(こっちの方はまさに一般的な声優の在り方と同じといえる)。

……というのが追記したかった事の一つ。また、「キャラクターを二重に纏う」という語はボカロ文化にもいえるのではないか? ということを書こうと思ったが、上手くまとめられないので今度別に書く。


もう一つは「世界観を持たないVTuber」という括りは少し雑すぎたかな? ということ。
私は、花譜というVTuberのパーソナリティがその"中の人"と同一であろうことを理由として、花譜をこの括りに入れた。しかし改めて考えると、花譜を「世界観を全く持たない」とし、「普段実写あるいは声のみで活動している人が新たにバーチャル体を纏った時」と同じとするのは些か乱暴すぎるような気がしてきた。

そもそも花譜は「仮想世界にいる」という設定をもっているし、「世界観をもたない」とするのはおかしい。かといってその強い”中の人性”は「弱い世界観をもつ」にも分類できない気がする。……ので、そもそも「どのくらい”中の人”の存在が重要で表に出ているか?」みたいな分類にしたほうがよかったような気がする


以上、セルフ反論・反省でした。

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