【ネタバレ】愚者を信じる/「オッペンハイマー」
こんばんは、瓶宮です。
4月から晴れて社会人になりました!ド級の鬱、ド鬱だぜ!!!!!!
オッペンハイマー、ついに!!!きましたね!!!
みたみたみた!!!観たァ!!!もう2回も観たァ!!!
原爆というセンシティブなものを扱っているからなのか、あるいはバーベンハイマーとかいうミームの影響なのか、日本公開このままないんじゃ……と不安に不安を重ね、ノーラン監督に祈りを捧げてみたりしていましたが、ついに公開とのことで!ありがとう!ビターズエンドさん!ありがとう!ようやった!!!!
とはいえ、原爆を作った男というのは、私も日本人の端くれとしては、心持ちをどうつくるかみたいなところは迷いました。いつもみたいに「映画たのしみ〜🎶」の気分ではなく、どっしり心構えを持って「対峙……」といったような、儀式じみた感覚がどこかありました。ノーラン監督、頼むぞ……という祈りもあり……。
以下ネタバレあります!!!!!
映画『オッペンハイマー』のレビューを書きました! | Filmarks(ネタバレあり)
https://filmarks.com/movies/99563/reviews/172185987 #Filmarks #映画 #オッペンハイマー
崩れそうだった。
もともと量子力学に惹かれていたオッペンハイマーは、研究のためだからという自らの好奇心と、ナチスに核爆弾を持たせてはならないという時代の風潮に飲み込まれて原爆づくりに着手しました。しかし、ヒトラーが自殺したとき、もう止めようにも止められなかったのでしょう。そして、「原爆の父」となる。
その後、彼は激しい後悔の念に駆られます。それでも、原爆の父として周りのために面目をつぶしてはならず、思ってもいないことをスピーチで言う。言うなら、自分じゃない自分が言ったんだ、と他人事にできるように、「成功してよかった、最高だ」と言う。
科学者は原爆を落とす権利に口出しができないと思いきや、あるときは「おまえが作らなければ」と責任を押し付けられ。「原爆の父」という空っぽの傀儡として生きるオッペンハイマーの姿には、どうしても苦しさを感じざるを得ませんでした。オッペンハイマーを語る言葉の中で、愚者という言葉をよく聞きます。愚者だったからそういう罰を受けたんだ、仕方ないよという思いにもなりました。けれど、この人は明確に人を殺したいと思って原爆づくりをめちゃめちゃ推し進めたわけではない。根底にあるのは、理論を証明したいという科学者としての好奇心でしかなかったのですから。
だから、もし私がこのような立場になったら、正直なところオッペンハイマーと同じように愚者になってしまうかもしれないと思ってしまいました。自分の内から湧き上がってくる欲望が、絶対に抑圧されなくてはならないものであったとき、それを貫き通して死ぬことができるか?パンしか食べられない世界で、どうしてもお米を食べたくなったとき、それを叶えようとすると世界が崩壊してしまうという代償がついてくるとなったら、お米を食べないで一生を終えられることができるか?(たとえ合ってるかな)
アインシュタインの最後の言葉でこの映画は幕を下ろすわけですが、原爆を作ったことが正しかったのかというオッペンハイマーの問いについて、彼が提言したことは救いにはなったのだろうと思います。責任を取り上げられるかと思いきや、都合の悪いときにだけ責任を押しつけられ、結局は彼もこのことを他人事にしたかったんじゃないでしょうか。しかし、アインシュタインは、批判する人も賞賛する人もオッペンハイマーのためではなく、「する人」のために行っているのだと説きました。そうされることで、オッペンハイマーとしてははじめて他人事として着地することができる。それは彼にとって赦しという救いになるのではないかと思いました。
ただねえ!私はかなしいよ!自分という主体が無きものにされることで救いになるのが!本当に、本当に、むごいよ。人間ってのはさァ、自分で物事を決められるっていう責任の伴う自由があるからこそ、人間のやりがいがあるんじゃなくって?他者によって岩に縛りつけられてしまうというのは、こういうことなの?重罪を犯そうと思ってやってるんじゃない……、けれどそれも責任の中に入るのか……。
もう一つ、崩れそうになったシーンとしてはやはり、トリニティ実験が挙げられます。もしかしたら、大気引火を誘発して世界を燃やし尽くしてしまうかも……でもやるしかねえ……の手の震えによる緊張感は凄まじかったです。けれどそれ以上に、実験が成功したときの無音が凄まじかった。無音の中、オッペンハイマーと観ている私たちの頭に、「この実験は成功してよかったのだろうか?」という、疑念が一生付きまとってくることを確信するという恐ろしさがこびりついて離れません。ぞっとしましたよ、シン……となるの。
その後のスピーチもすごかった。足音バタバタ、大歓声、音のすべてが原爆の音に聞こえて仕方ない。そんな原爆を否定したい自分だけが、取り残されている!
悲鳴が聞こえるんです。嬉しさの悲鳴なのか、原爆投下による絶望の悲鳴なのか。これ、ヤバい……。なぜだか涙がほろほろと出てきそうで、けれどもそれを上回るあまりにも重い感情が迂闊に泣いてるんじゃない、とせき止めているような感覚になりました。マジで、このシーンの足音バタバタのクソデカ音量も相まって、迫力がすごかったですね。忘れられないよ。
2回目観たときは、アメリカが強者として君臨していることによる、強者の権利を振りかざす人々にウオ……と思いました。だって、爆弾を落として被害を最小限に止めよう!なんて弱者の側から出てこないのでは……。
ラビの「物理学300年の集大成が爆弾なのか……」というセリフにも、ウワア……となりました。なんかもうさっきからウオ……とかウワア……とかしか言ってない。学問って突き詰めていったら自らを滅ぼすことになってしまうの?人間の豊かさには回帰していかないの?えーーーん!!!じゃあ学問の意味も、人間が人間らしく生きる意味もないじゃん!?えーーーん!!!!!😭😭😭
そうじゃないことを願いたいよ、オッペンハイマーの戦後の生き様を信じてもいいのか?
わたしはこの映画が日本で公開されて、本当によかったなと思いました。切実に……。
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