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声の対象

2023/06/28のtwitterより

今日は「声の対象」ということについて考えてみたい。声は、演技を考える際にかなり重要な要素のひとつだろう。良い声を出すための指導をしてくれる「ボイス・トレーナー」なんて職業が存在していることからも、表現にとっていかにそいつが重要視されているかがわかるだろう。

発声の方法とか、そのためのストレッチとか、筋トレとか、もちろん、そういう「訓練」も有用だろう。そもそも、一朝一夕に「良い声」なんてものは獲得できないものだし、一ヶ月の公演期間中に自由に声を出して嗄らさないだけの力があれば、もうそれだけで立派なプロと言って良い。ここでするのはそういった「訓練」の話ではない。今日は「声の対象」について書いていく。

さて。良い声を出すためのひとつの条件として、対象が定まっている、ということが挙げられる。これは言い換えれば、何に向かって声を出しているのかが明確である、ということだ。普段、私たちが暮らしている時にも声は様々な対象に向かって発せられるが、その際、意識的/無意識的を問わず、大抵、ちゃんと対象が、すなわち声の目的地が見つかっているものだ。自分が誰に声を掛けているのか、あるいは、独り言なのか、複数の人に語りかけているのか、通常、私たちはわかっていて、声を発する。
 
もちろん個人差はあって、複数の人に語りかけるのが苦手だ、とか、ふたりきりの際に相手に焦点を合わせて声を発するのが苦手だ、とか、そういう感覚はあるだろう。自分の考えを整理するためにブツブツ出る声もあるだろうし、思わず漏らしてしまう呪詛のような声もあるだろう。避難を呼びかける声、感謝を告げる声、などなど、いろんな場合にいろんな声を私たちは出すわけだが、何のために、誰に向けて出しているかについては、自分である程度把握していることが多い。
 
それが、演技においては適用されない。演技においては、声の対象、声の目的地が見失われてしまうことが多い。いや、正確に言えば、声の対象を間違えてしまうことが多い、ということになるだろうか。僕は演出家として、「よくわからない方向に発せられてしまう声」にしばしば出くわす。なぜなのか。

演技をする上では、観客に声を届かせたい、という形で、間違った対象、目的地が設定されてしまうことが多いからなのかもしれない。下手をすると、観客に「良い声」だと言われたい、という目的で、観客に対して声を届けてしまう場合もあるだろう。違う。声は、相手役に届けろ。相手役を動かすために、声を使え、と、僕は演出席に座りながらしばしば思うわけだ。このことは簡単なことにも思える。「観客に聞かせるためじゃなく、相手役を動かすために声を出そう」という理屈。これはとてもシンプルで、簡単なことにも思える。まあ、実際、こともなげにそれを成し遂げる人もいる。でも、とてもこれを難しいと感じる人もいる。どうしても、相手役に声が届かない、当たらない人もいる。
 
この難しさの原因のひとつには、リアリズム劇を多くの観客に見せることが孕む根本的な矛盾の問題がある。要するに俳優は「ふたりっきりの会話を300人の観客が聞き取れる声で発しなければならない」という矛盾を克服しなきゃいけないわけだ。当然、これは難しい。僕はこれを克服してもらうためにしばしば俳優に対して「二重の空間意識を持ってほしい」と伝える。ふたりきりの、密度の高い「役柄」が持っている空間意識と、観客に対して開かれた、劇場全体を覆うような、「俳優」が持っている空間意識と、両方持っていて欲しい、と。
 
ただ、この二重の空間意識の話は今日は脇においておこう。声の対象についての話を優先する。俳優が声を発する際には間違った対象/目的地に向かって声を出しちゃいけない、というところまで書いた。観客に届ける為じゃなく、相手役を動かす為に声を出そう、と。じゃあ、相手役にいつも声を当て続ければいいのか? それも、違う。

ここでようやく今日の本題だが、声の対象には種類があると、僕は思う。大雑把に言えばその対象とは、「自分」「他者」「場」「空間」の四つぐらいに大別されるんじゃないだろうか。あえて言えば「物体」という対象も含まれるだろうが、この対象はかなり現代的な場面に限定されるので後述する。
 
前置きが長くなったが、要するに今日、僕が言いたいことはこうだ。どんな台詞にもきっと適切な対象があるはずで、それを明確にするために「自分」「他者」「場」「空間」という指標を使って考えて欲しい、と。クドいのは承知でもう少し噛み砕いて言語化してみよう。
 
対象が「自分」になっている台詞というのは、もちろん独り言みたいな台詞のことだが、この独り言、呟き、という発話のスタイルは、会話の最中にもしばしば現れる。たとえば『人形の家』のノーラがラスト・シーンで言う「私はあなた(夫)の価値観に合わせてきた。それとも、そんなフリをしていた? よくわからない」という台詞、途中までは対象が「他者」の台詞だが、その台詞の最中にふと対象が「自分」の台詞が一言だけ混ざってくる。対象が揺れているのだ。

と、もちろんこれは「そのように解釈して演じることが可能だ」ということに過ぎないわけだが、とにかく、声の対象というのは、ひとつの台詞の中でさえめまぐるしく変わる場合がある。むしろ、対象の種類なんて台詞によって全部違うだろうし、無限にあると言えば言えてしまうだろう。だが「時に依って無限に変化する」なんて言われても対象は掴めない。俳優は、なるべく正確に、具体的に対象を把握したい。でなけりゃ無目的な、観客に聞かせる為の声になってしまうから。劇の内部に対象を見つけたい。
 
台詞を与えられたら、まずはシンプルに「誰に向けて言ってるんだ?」と考えて欲しい。誰に? そして何のために? このことが明確になっているだけで台詞は活きてくる。そして、もう少し詳しく対象を分析する際に「自分」「他者」「場」「空間」という基準を使って考えて見て欲しい。
 
昔、ネットのミームみたいなもので「人は愚かなものです。特にお前」という「台詞」があったが、例えばあれなんかは前半は「場」を対象にして発せられる言葉で、後半は「他者」に対して発せられる言葉だ。台詞がうまく言えない、届かない時は、もしかすると対象を間違っているのかもしれない。
 
逆に言えば、対象が非常に細かく正確に把握できていれば、台詞というのは自然といろんな声で発せられるものだ。だから、台詞がしっくり来ない時にはしつこいぐらいに、誰に向かって? ドコに向かって? ということを自分に問いかけてみてほしい。それがハッキリしたら途端に上手くいく。こともあると思う。
 
そして補足。「物体」を相手に声を出す機会が現代では増えてきたな、と思う。「OK Google」とかね。音声入力とかね。ああいうのは、声の種類としては結構、本質的に新しいものなんじゃないかと思う。対人の声の出し方とニュアンスが近い部分もあるけど、やっぱり根本的には全く違う。「自分がどんな声を出すのか」ということは、相手に何を期待しているかによって大きく変化する。スマホに向かって話しかける時に私たちが期待しているのはマシンが「作動」することだ。対人において私たちが期待しているのは相手が「応答」することだ。私たちは「他者」に対しては強く「応答」を求めている。「場」に語りかける時には「応答」、あるいは「反応」を求めていると言えるだろう。そして「空間」に語りかける時というのは「応答」をほとんど期待していない/できない時だ。最後に「物体」に声を発する際には「応答」ではなく「作動」を期待している。
 

長々と抽象的に聞こえるかもしれないことを書いた。でも、これは本当にとても俳優にとって重要なことだと思うので、どうか心に留めておいて欲しい。以前した「配置」の話とも通じるが、このことは、言葉が伝わる俳優と、そうでない俳優との、その差異を作っている重要な要素のひとつだと思うから。

舞台上ではなく、現実の場面においても「声の対象」って概念は役に立つはずだ。「あの人の言葉はどうも伝わりづらいな」という際には、言ってる内容だけじゃなくて声の対象の問題が含まれているのかもしれない。例えば複数の人間が参加する会議で「場」に対して声を発するべきところを、「空間」に対して拡散した声を出してしまったら伝わらない。ずっと「場」に対して出していた声をふと「他者」に対して絞って出せば、会議の参加者の注目を引き付けられるのかもしれない。
 
今日はそんなところで。

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