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第9回 「私たちのアンデルセン」の誕生、そして……


 1850年5月3日、日刊紙「祖国Fædrelandet」にアンデルセンの詩「デンマークで我は生まれた I Danmark er jeg født」が発表されます。現代でも学校や地域活動の中で日常的に歌われていて、2020年公開の映画《アナザーラウンド》(原題は《飲んだくれ Druk》)にも合唱の様子が描かれていますので、ふたたび観る機会があれば注意してみてください。とりあえず1番だけ訳してみましょう。
 
 デンマークで我は生まれた、そこに私の故郷はある、
 そこに私は根を下ろしている、私の世界はこの地より広がる。
 デンマークの言葉よ、お前は私の母の声なのだ、
 美しい歓喜とともにお前は私の胸に届く。
 デンマークの爽やかな海岸よ、
   古代の戦士塚が
   林檎園とホップ園に立ち交じるところ。
   お前を愛している! ──デンマーク、わが祖国よ!
 
 第一次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争(三年戦争 1848-50年)のさなかに書かれたこの詩は、スカンディナヴィア民族の独自性を謳い上げる同時代の気運に見事に適合しました。5月8日に作曲家ヘンリク・ロング(Henrik Rung 1807-1871)がコペンハーゲンのカシノ座で催した演奏会では、前年のフレザレチャ(Fredericia)での勝利を記念する流行歌「勇敢な国民兵Den tapre Landsoldat」の前の出し物としてこの歌が披露されました。この時期、戦意高揚と国民統合を呼号する風潮の中で、アンデルセンの文学も一定の寄与を果たしていたことは間違いありません。近年では、2011年に右派政党「デンマーク国民党(Dansk Folkeparti)」がこの詩の「私の世界はこの地より広がる(herfra min verden går)」の節を党のスローガンとしてスピーチやポスターの中で引用し、はてはこの詩節を使った歌まで制作しています。党員たちの誇らしげな合唱パフォーマンスを撮ったミュージック・ヴィデオはさながらマイケル・ジャクソンのチャリティソング “Heal the World”を想起させ、デンマークの田園風景や議員たちのインタヴュー映像をカットアウェイで挿入しています。アンデルセンはデンマークを代表する文化的アイコンとしてつとに国際的に周知され、彼の手になる愛国詩ともなれば、移民排斥の声が高まりを見せていたこの時期に政治利用を免れなかったのです。
    また、停戦の翌年に発表された童話『白鳥の巣Svanereden』(1852年)は、ドイツ語圏の脅威に対する対抗意識が濃厚な内容で、数々の才能に彩られた民族の栄光ある歴史を振り返りながら、外から襲い掛かる猛禽に抗う白鳥の姿を讃えます。短いテクストなので、全篇を翻訳してみましょう(デンマーク語を学習中の方は原文にもチャレンジしてみてください)。

  バルト海と北海のあいだに古い白鳥の巣があって、それはデンマークと   
 呼ばれています。白鳥たちはそこで生まれ、今も生まれていて、その名は
 けっして死に絶えることがないのです。
  いにしえの時代、白鳥の一群がここからアルプスを越えて、住み良いミ 
 ラノの緑野をさして飛んでいったのです。白鳥の群れはロンゴバルド人と  
 呼ばれました。
  もうひとつの群れは、輝く羽根と忠節ゆるぎないまなざしでビザンティ
 ンを指して飛びたち、帝座のまわりに降り立つと、皇帝を守ろうと大きな
 白い翼を盾のように広げました。この群れはヴェーリンガー[ヴァリャー
 ギ]と名乗ることになります。
  フランスの岸部からは、翼の下に火をひそめ北欧からやってきた血みど
 ろの白鳥を前に不穏な叫びが響きわたり、人びとは「野蛮なノルマン人よ
 り救い給え」と祈っていました。
  イングランドの茫々たる海岸に面した蒼々と草の茂る原野には、三重の
 王冠をいただいたデンマーク生まれの白鳥が立ち、黄金の王笏を国土の果
 てまで差し伸べていました。
  異教徒どもはポンメルンの岸部に膝を屈し、デンマークの白鳥たちは十
 字架の旗印を掲げて剣を抜き放って迫り来るのでした。
  大昔の出来事さ! と君は言います。
  今の時代に近いところでも、たくましい白鳥たちが巣から飛び立つのが
 見られましたよ。
  それは空気を透かして光り、世界の国々に向かって輝きを放ちました。
 白鳥が力強い羽ばたきで朝霧を払うと、星空はいっそう澄み渡りました。
 それはまるで、星空が地上に近づいてくるようでした。それはテュコ・ブ
 ラーア[ブラーエ]という白鳥だったのです。
  「ああ、その時代のことね!」と君は言います。「でも今はちがう!」
 と。私たちの目には、白鳥が白鳥のそばに並んですばらしい羽ばたきを打
 って飛んでいくのが見えます。ある者は黄金の竪琴の糸のうえに翼を滑ら 
 せ、北欧全土に響かせました。ノルウェーの山巓は古代の陽光を浴びてい
 っそう高くそびえ立っていました。トウヒとシラカバのあいだを風が吹き
 すさびました。北欧の神々は、英雄は、高貴な女性たちは、深くて暗い森
 の土に姿を見せました。
  私たちは、一羽の白鳥が大理石の山に向かって翼を打ちつけるのを見ま
 した。山が砕けて、石につながれた美の姿が爽快な陽の光に浮かび出るの
 を見ました。各国の人間がこれらの像を一目見ようと頭をもたげました。
  私たちは第三の白鳥が思想の糸を紡ぎ、それが国から国へと渡り、地球
 全体に定着するのを見ました。言葉が稲妻の速さで諸国を飛び回るのを見
 ました。
  主はバルト海と北海のあいだに作られた古い白鳥の巣を嘉されていま
 す。その巣を引き裂こうという強い鳥たちは、空を切ってやってくるがい
 い。「そんなことはさせないぞ!」と、羽毛の生えていない雛までが輪に
 なって、巣の縁に並んでいます。私たちは見たのです。雛たちがその若い
 胸を抉られるのを、そうして血が流れるのを、彼らが嘴と爪で打ちつける
 のを。
  この先もなお何世紀となく過ぎていくでしょう。白鳥たちは巣から飛び
 立ち、世界中でその姿を認められ、声が聴かれることでしょう。そしてい
 ずれ、真心と真実をこめてこのように言われる時代が訪れるのです。「こ
 れが最後の白鳥だよ、白鳥の巣から響く最後の歌だよ!」と。
 
 アンデルセンはかつて、『みにくいあひるの子』(1843年)で自らの芸
術的天分の開花を美しい白鳥に仮託して象徴的に描きました。ここではしかし、ゲルマン民族の大移動やビザンティン皇帝麾下のヴァイキングからなる親衛隊、キリスト教改宗後のバルト海十字軍、プラハに移り住んだ天文学者テュコ・ブラーアなど、ヨーロッパの歴史を彩るデンマーク民族の栄誉の象徴として白鳥を登場させています。近代以前の神話や歴史、文化的遺産を国民共同体の存立基盤として再発見することは、国民ロマン派の文学に共通する創作手法ですが、アンデルセンもまたデンマークや北欧に固有な価値を見出すよう、同時代の危機の中で方向づけられます。以前のように、故郷オーゼンセからコペンハーゲンへ、デンマークからヨーロッパへ東方へと、外に向かって自己を開いていったアンデルセンが、この時期はスカンディナヴィアという足元の世界の発見者に転じます。
 
 1848年にはじまるプロイセン=オーストリア連合軍との衝突は、かつて「旅することは生きること」と謳いあげたコスモポリタン的な生活にも大きな変化をもたらしました。大陸世界の旅の記録『一詩人のバザール』が書かれた1842年から情勢は大きく変わり、年来続けてきた南への旅も一時断念せざるをえなくなります。南への道を塞がれたアンデルセンは、代わりに18世紀まで幾度もデンマークと砲火を交えてきた北欧の隣国スウェーデンに足を向けます。北欧地域への理解を深める契機となったこの旅は、アンデルセンにスカンディナヴィア民族共通の言語文化に対する開眼を促しましたが、とはいえ彼が無反省にナショナリスティックな風潮に流されていったというわけではありません。たとえば、スウェーデン旅行中の1849年5月26日の日記には、現地の友人の言として、デンマーク人は自己の権利を頑なに主張する傾向があるためにかつてスウェーデンと敵対することになった、今は両国とも友好を結んでいるが、今度はドイツに憎悪を向け権利を主張している、デンマークが自らの位置を理解し、北欧とドイツの架け橋としての役割を担う時代が到来するだろうと説かれたと言います。
 またスーデルシェーピング(Söderköping)周辺をめぐっていた1849年7月18日の日記によると、アンデルセンはとある老伯爵の「聖名祝日(Navnedag)」の宴に招かれ、シャンパングラスを手にした伯爵から「デンマーク民族のため、ドイツ人撃滅を願って」乾杯を求められます。ところが、その宴席にハノーファー出身の家庭教師も同席していました。伯爵への礼節として乾杯に応じたアンデルセンですが、「その哀れなドイツ人の娘さん」に対してさすがに捨ておけないものを感じたらしく、みずから歩み寄って「平和と善き日々」について親しく語りかけたといいます。『人魚姫』のような声なきアウトサイダーの物語を生み出してきたアンデルセンが、同時代のナショナリズムの激化に同調する一方で、孤立を深め沈黙を余儀なくされるマイノリティの存在を気にかけずにはいられなかったことがここから伺われます。もっとも日記の続きには、ストックホルムにいる援助者ベルンハルド・フォン・ベスコヴ(Bernhard von Beskow 1796-1868)に宛てて南部ユランでのデンマーク軍の勝利を伝えたと記されているわけですが。
 アンデルセンの日記の大部分は、基本的にどこかの領主に招かれたとか、どこそこの芸術家に自作が誉められたといった類の個人的栄誉に関わる記述で占められていますが、1850年前後にかぎっては戦地から伝わってくる戦況報告で紙面が埋まることになります。刻一刻と変化する戦況の記録は、信仰と科学の間に揺れる青年の葛藤と成長を描く長篇小説『あるべきかあらざるべきか(生きるべきか死ぬべきか)At være eller ikke være』(1857年)の中の第一次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争の叙述に活かされます。北欧文化圏とドイツ語文化圏の衝突が、彼にとってなみなみならぬ関心事であったことがこれらの形跡から窺えます。小説『即興詩人』がドイツで好評を博した1835年以来、アンデルセンはドイツ語圏の人びとに深い感謝と親しみを抱いていました。デンマーク文学の権威に長く容れられなかったアンデルセンにとって、ドイツの友人たちは詩人としてのアイデンティティを保つ拠り所でした。そのせいもあって、シュレースヴィヒの帰属をめぐりデンマークとドイツ諸邦との間で緊張が高まると、アンデルセンはデンマーク・ナショナリストたちから愛国心が欠如しているとして槍玉にあげられることにもなります。
 それでも、デンマークの文化的特殊性を称揚する同時代風潮の中で、アンデルセン自身が早くから「国民詩人」のひとりに祀りあげられていたことは間違いありません。国民ロマン主義の全盛期に刊行されたホルガ・トリューゼ編『子ども向けの暗唱用の詩文集Digte og Riim for Børn til Udenadslæsning』(1840年)、クリスチャン・ハンセン編『学校唱歌30篇30 Skolesange』(1858年)、クリスチャン・ヴィンタ編『学校授業用の児童向け詩集Digte for Børn til Skolebrug』(1859年)といった教材用アンソロジーに採録されることで、アンデルセンの詩作品は作者存命中にデンマーク国民のアイデンティティを形づくる平均的教養として定着しました。左派系の価値観のもと政治・教育の転換が顕著な1970-80年代には、国民文学的なフレームで特定の作品を特権化することに批判の声があがり、教師独自の判断で授業の素材と方法を選択する「サークル教育学」が奨励されます。そういった革新的運動は、1990年代初頭に始まる反動の波にさらされて次第に退潮し、代わりに特定の文学作品をデンマーク国民にとって「最良」の「文化資本」として位置づける政策が要請されます。そういった流れを受けて2004年には、学校教育の中で教師が生徒に読ませるべき作品を指定した「カノン」と呼ばれるリストの中に、アンデルセンの作品も挙げられることとなります。いまやアンデルセンは、デンマーク固有の文化を保存し国民国家の独立性を支える装置として、教育制度の中に組み込まれているのです。

1864年の第二次シュレースヴィヒ戦争で失われた南部ユラン(Sønderjylland)のデンマーク領復帰を記念する1920年の絵葉書。アンデルセンの詩「デンマークで我は生まれた」(1850年)が印刷されている。
 
アンデルセンはシェイクスピアやマルクスと並んで世界中に読者を得る一方で、祖国デンマークを代表するアイコンとして内外に宣伝され、そのため自国文化の特殊性を強調するという政治的効果を生んできました。ほとんど合言葉のように語られる「私たちみんなのアンデルセン(vores allesammens H. C. Andersen)」という文句は、実のところ「デンマーク人の占有物であるアンデルセン」という意味に理解していいでしょう。その作品はデンマークの文化的風土と切り離して理解することはできず、それらが勝ち得てきた世界的評価もデンマークという国民共同体に由来するという主張が基底に横たわっているのです。
 となると、現代のデンマークの教育現場でアンデルセンのテクスト解釈がどのように行なわれているかが気になるところです。教室でアンデルセンについて語られるとき、多かれ少なかれ教師はその場にいる生徒全員がアンデルセンという人物について一定の知識を持っているという想定に立っています。そこで語られる作品解釈は、個々の童話に道徳的なメッセージが込められているという多分に19世紀以来の国民ロマン派的な解釈枠を引きずっていて、教師と生徒の対話型授業もそのような前提に立って進められることが多いようです。また、創作の内容を作者個人の実人生に還元するという文学理解の手法が、教育現場ではいまだに再生産されていることも見逃せません。かくいう私もこの連載で『ナイチンゲール』を解釈するにあたり、作者とイェンニ・リンドの関係に触れたりもしましたが、それはテクストの成立に関わる周辺的事情を確認したまでのことで、それをもって作品理解の可能性をひとつの方向に限定することはまったく別の話です。文学創作を作者の伝記的経歴の反映とみて意味づける手法は、テクストの読みに制約を与え、極端まで押し進めると「デンマークのアンデルセン」どころか「アンデルセンのアンデルセン」という極小のフレームで作品を理解することになります。これは、読者(生徒)の自由な解釈を阻み、読書体験の滋味を損なうことにも繋がります。
 
 アンデルセンがデンマークの国民文化を代表するアイコンになっていることは、観光名所に置かれた幾多のモニュメントを見ても明らかですね。コペンハーゲンの海岸沿いのランゲリニェ通り(Langelinie)の波打ち際には、古代北欧の巨石遺構を模した台座が設置され、その上にはアンデルセン童話に登場する人魚のブロンズ像がはかなげに座っています。現地の土産物屋で売られているポストカードはもとより、日本で目にする旅行雑誌の北欧特集記事やアンデルセン研究者のホームページにもさんざん写真が使われてきたこの人魚像は、「アンデルセン童話を生んだデンマーク」という牧歌的で無垢で親しみやすいナショナル・ナラティヴを世界中に発信し再生産するメディアとして機能してきました。一方で、人魚のモニュメントはそのようにステレオタイプ化された社会像への異議申し立ての場としても使われます。ときにペンキで汚され、ブルカやガスマスクを被せられ、またときに首を切断されるという、人魚が蒙ってきた数々の毀損行為は、恣意的なフレームの中で語られる理想的なナショナル・イメージが覆い隠してきた社会的コンフリクトを炙り出してみせました。
 デンマークのシンボルとして内外に浸透した人魚像は、ときに海外メディアによるデンマーク社会の諷刺にも用いられます。2016年1月26日、イギリスの「インディペンデントThe Independent」紙に掲載された漫画家デイヴ・ブラウンの風刺画は、デンマークの排外的傾向を人魚像に託して批判するものでした。

 右手に財布、左腕にネックレスを携えた人魚像は、顔立ちといい身体のラインといいどこかマッチョで険悪な印象を与えます。これは当時デンマーク政府が、大量に押し寄せた難民を国境で検問する際、1万クローナ(およそ1300ユーロ)以上の価値をもつ所持品がみつかれば警察権力をふるって押収する政策を打ち出したという背景があります。人魚の左手に握られたプライヤーの先には、難民の口から捻じとった金歯が光り、難民に対して苛烈な収奪行為が行なわれる可能性を示唆しています。また、台座のドルメンに立てかけられたプレートに刻まれた末尾の詩句「奴らの財布だの宝石だの金歯だのを取り上げてやろう!」は、かつてユダヤ系アメリカ人作家エマ・ラザラスが自由の女神像の台座の建造資金を集める目的で書いたソネット『新たな巨像The New Colossus』(1883年)のパロディです。
 ブラウンの諷刺画は、国民的アイコンとして理想化された文化遺産のもつメッセージ性が、ときにネガティヴな方向に反転するという集団的ナラティヴの両義性を思い知らせてくれます。国民的文学遺産のひとつとして「カノン」の中に列せられたアンデルセン作品もまた、それが発するメッセージは決して一定ではなく、時代的な文脈の中でいかようにも変化する余地を残しています。そもそもアンデルセンが登場した1830年代当時、数々の童話の中に挿入されるアイロニカルな語り口は、物語の外側から「世界はこんな風にも理解できる」という多様な視点を与えた点で斬新だったのです。フリードリヒ・シュレーゲルらドイツ・ロマン派から継受した文学表現としてのイロニーは、クリスチャン・モルベクらが賞賛するグリム兄弟の素朴な語りとはまったく異質で、拒否反応も招きましたが、これが後世の散文作家の規範となりました(ちなみに、アンデルセン童話とグリム童話の比較をやりたがる人はたくさんいますが、19世紀前半のデンマークでグリム童話がいち早く受容されたためにアンデルセンにとって出世の障壁となったことは、日本ではあまり知られていません)。

 この連載の序文でもお話ししましたが、私はデンマーク文学を研究しながら、アンデルセンについて語ることにいまひとつ積極的になれずにいる自分を感じてきました。その理由が、これまで途切れがちにコラムを書き継ぐ中でだんだんとわかってきたような気がします。 
 デンマーク文化の紹介者をもって任じる大学教員やライターが事もなげに繰り返す、「子どもの頃アンデルセン童話を読み聞かせてもらったことのない人はいないでしょう」という語りかけへの違和感です。少なくとも私の幼年時代を振り返るに『みにくいあひるの子』や『人魚姫』といった異国のメールヒェンが、当たり前に身の回りに存在していたという記憶はありませんし、周囲の大人から読み聞かせをしてもらった経験もありません。上記の先生がたの依って立つ前提は、北欧に関する話題の端緒を得たいがために都合よく想定された「平均値」でしかなく、そこから洩れる人たちを無自覚に疎外し、コミュニケーションの道を狭めているのではないでしょうか。
 もちろん、ああいった類のイントロダクションは北欧の事情に不案内な学生や一般読者の関心を刺戟する意図でなされているのでしょうし、話をよくよく聞いてみれば後にもっと奥行きある情報が用意されている場合もあるでしょう。それでも、このような手垢まみれの文句が世界的童話作家の著名性に寄りかかったお座なりの常套句であることに変わりなく、発信者のパーソナリティや聞き手の個別な生活史から乖離したところでアンデルセンという記号をやりとりしているに過ぎないでしょう。早い話が、デンマークや北欧といった地理的領域にどうにか関心をもってもらわないと商売が成り立たないので、アンデルセンをその取っかかりとして苦し紛れに利用しているわけです。そうした語り口は、アンデルセンに固定的な解釈枠をあてがいナショナル・アイコンとして制度化するキャンペーンを、外国人の立場で無反省に模倣していることにならないでしょうか。こういった反省をやりづらいところが、北欧に特化したメディアや教育機関の限界なのかもしれません。少なくとも私は、デンマーク文学への関心を高めたいからといって現地国の宣伝役を買って出る義理はありませんので、いたずらにアンデルセンのイノセントさを強調する類の陳腐な広告文を弄ぶことはしたくないと思っています。
 重要なことは、「私たちみんなのアンデルセン」などという「文化的所与(cultural a priori)」としてアンデルセン作品を捉える惰性的態度を意識的に脱ぎ捨てることです。『皇帝の新しい衣裳Keiserens nye Klæder』の末尾で「皇帝は裸だ」と叫ぶ子どものようなまっさらな眼で、彼の童話を眺めることができれば、どれほど多彩な星座が浮かび上がってくることか。そういった眼を持つためには、『マッチ売りの少女』や『おやゆび姫』のような有名童話以外のマイナーな作品にあえて注目するというやり方もあるでしょう。岩波文庫に入っている大畑末吉訳の『完訳アンデルセン童話集』全8巻や、かつて東京書籍から出ていた鈴木徹郎訳『アンデルセン小説・紀行文学全集』全10巻には、語られる機会が乏しいけれども興味深い作品がたくさん収録されています。私が力を入れたいのは、日本でまだ紹介されていない作家も含めた近代デンマークもしくは北欧という奥行きある世界の中にアンデルセンを置き直してみることです。夜空に浮かぶ星座を形作る一粒の星としてアンデルセンを眺めることで、今までとは違った輝きが感じられるはずです。
 それじゃあ、そんなことを言っているあなたはどのようにアンデルセンと向き合っているのですかという話になりそうですね。次の第10回は、21世紀に生きる私やあなたにとってアンデルセンはどのような世界を開示してくれるのか、私なりの考えをお話しして完結編としたいと考えています。
 
参照文献
H. C. Andersens dagbøger: https://oraapp.kb.dk/hca_pub/cv/main/Oversigt.xsql?nnoc=hca_pub. Det Kongelige Bibliotek 2004[2022年8月10日閲覧].
Bom, Anne Klara: Vores allesammens H.C. Andersen – Diskursteoretiske analyser af kulturfænomenet H.C. Andersen og dets aktuelle betydninger lokalt, nationalt og globalt. Syddansk Universitet (ph.d.-afhandling) 2013.
Bom, Anne Klara og de Muckadell, Caroline Schaffalitzky: “National icons in education - Hans Christian Andersen and the cultural policy of the canon of Danish literature”. i: The International Journal of Cultural Policy, 27(4). Syddansk Universitet 2021, s. 411-421.
Detering, Heinrich / Fazli, Sabina (overs.): “H. C. Andersen’s ‘Schiller Fairy Tale’ and the Post-Romantic Religion of Art”. i: Romantik, 01, vol. 01. 2012, s. 49-66.
Jessen, Mads Sohl: “The Grimms as the Elephant in the Danish Fairy Tale Room – An Interpretation of Hans Christian Andersen’s Concept of a Future Community of Fairy Tale Readers”. i: Bom, Anne Klara o. a. (red.): Hans Christian Andersen and Community. University Press of Southern Denmark 2019, s. 149-164.
Thomsen, Torsten Bøgh: “Funen Means Fine – Andersen the Anti-nationalist”. i: Bom, Anne Klara o. a. (red.): Hans Christian Andersen and Community. University Press of Southern Denmark 2019, s. 243-258.
Thomsen, Torsten Bøgh og Bom, Anna Klara: “Denmark, My Native Land! Hans Christian Andersen as a Happiness Object with Killjoy Potential”. i: Nie Zhenzhao, Zhejiang o. a. (red.): Forum for World Literature Studies Vol.11, No.2. Knowledge Hub Publishing Company Limited 2019, s. 209-225.

著者紹介 / 奥山裕介(おくやま ゆうすけ)1983大阪府生まれ。大阪大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得退学。デンマークを中心に近代北欧文学を研究。共著に『北欧文化事典』(丸善出版、2017年)、訳書にマックス・ワルター・スワーンベリ詩集『Åren』(LIBRAIRIE6、2019年)とイェンス・ピータ・ヤコブセン『ニルス・リューネ』(幻戯書房、2021年)がある。

【お知らせ】奥山裕介先生が『ニルス・リュ-ネ』(写真左;イェンス・ピ-タ-・ヤコブセン著、奥山裕介訳、幻戯書房刊)を上梓されました。イェンス・ピ-タ-・ヤコブセン(1847-1885)は、夭折の詩人で、『ニルス・リューネ』の翻訳は山室静訳『ヤコブセン全集」(青蛾書房、1975年)以来46年ぶりの新訳です。


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