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第7回「ナイチンゲール」を読む(中編)

文中マーク

 前編に訳を掲載した童話「ナイチンゲール」、みなさん読んでいただけたでしょうか。
    前々回(第5回)にもお話ししましたが、アンデルセンの童話は架空の舞台にデンマークの同時代状況が織り込まれていて、多くは作家の実人生での経験が創作の源流になっているのです。現在の批評理論では文学表現のメッセージ性を作者の伝記的事実に還元する議論は読みの幅を狭める陳腐な手法と見なされていますが、アンデルセンの創作童話がそれ以前の民間伝承としてのメールヒェンと大きく異なるのは、作者の実人生の刻印の有無です。このコラムでは、創作童話という近代文学ジャンルの特殊な成立事情をお伝えするためにも、ひとまずテクストの書かれた伝記的背景を確認しておくことにします。
 まず作中のナイチンゲールは、幼少のころその美声のために「フュン島のちっちゃなナイチンゲール」と呼ばれていた作者の自己投影であると考えられます。と同時に、「スウェーデンのナイチンゲール」ことイェンニ・リンド(Jenny Lind 1820-87)との出会いが創作の契機になっていることも知られています。15歳年下のこのオペラ歌手に、アンデルセンは強く惹かれます。1843年、イェンニ・リンドははじめてスウェーデンを出てコペンハーゲンの舞台を踏むことになります。故国では好意的な評価を得ていた彼女も、異国の観客に受け容れられるかどうかはかなり気がかりだったらしく、上演中に口笛を吹いて囃されるのではないかという不安をアンデルセンにも洩らしていました。
 ちなみに、アンデルセンとイェンニ・リンドの出会いはこれが初めてではありません。アンデルセンの自伝『わが生涯の物語』には、1840年にコペンハーゲンのホテルでこの歌姫に出会ったときに受けた、彼女の丁重ながらも冷淡な印象が記されています。この時点では無名の歌手であったイェンニ・リンドでしたが、その後アンデルセンの詩才を知って愛読者となり、3年後コペンハーゲンで親交を結んだのでした。
 自伝よりも細かな事実関係に筆が及んでいるアンデルセンの日誌によると、1843年9月にデンマークを訪れたイェンニ・リンドは、10日にジャコモ・マイヤベーアのオペラ『悪魔のロベール』にアリス役で出演し、その晩バレエ界の権威アウゴスト・ブアノンヴィルの邸宅でアンデルセンと夕食をともにしています。さらに18日には、国王クリスチャン8世(在位1839-48年)の前で歌を披露しています。オペラのほかコンサートではスウェーデン歌謡を披露したイェンニ・リンドは、コペンハーゲンじゅうを熱狂させました。アンデルセンは12年後に書いた自伝の中でこのときの彼女の歌声を「芸術の王国の啓示(en Aabenbarelse i Kunstens Rige)」と振り返り、「清新この上ない美声がすべての心に流れ込んだのだ! ここには真実(Sandhed)と自然(Natur)があり、すべてが意味(Betydning)と澄明(Klarhed)を得ていた」と、なお冷めやらぬ興奮を洩らしています。
 アンデルセンはイェンニ・リンドのうちに、ロマン派芸術家の典型を見ていたといえるでしょう。すなわち民衆の心を真・善・美へとひとしく導き調和させる「自然」の代弁者としての理想像を体現する芸術家として、この歌姫を見つめていたはずです。また、スウェーデンから北欧の中心都市コペンハーゲンにやってきて芸術的成功をおさめた彼女は、おなじくオーゼンセから首都に渡ったアンデルセンのシンパシーを掻き立てたでしょう。「舞台の上の彼女は、周囲をあまねく照らす偉大な芸術家だった。部屋にいるときは、子どもの心と敬虔さでいっぱいの、控えめで幼い少女だった」というイェンニの印象は、首都のエリート市民の中で異質な存在だった靴屋の息子アンデルセンの自意識と一体となって、精彩の乏しい羽色に似つかぬ美声をもったナイチンゲールの描写に投影されていると考えられます。

文中マーク

1. 「ナイチンゲール」の中の中国
 この童話の舞台は、デンマークから遠く離れた中国の帝都です。ですが、アンデルセン童話の舞台がこの作品にかぎってどうして中国なのか、そしてその世界は本当に中国なのかという点は、疑問をもちたいところです。
 冒頭、「中国では、皇帝だって中国人なのですよ。皇帝がまわりに侍らせているのはみんな中国人です」などと、いってみれば当たり前の状況をわざわざ念押ししていますね。ここまで大仰に強調されるとかえって、物語の舞台設定が実はカムフラージュで、皇帝も家来もどこか別の世界の住人を想定しているのではないかという気がしてきませんか? もちろん、物語は最初から最後まで「中国の物語」として完結するわけですが、この物語がティヴォリ公園に象徴される19世紀のオリエンタリズム、さらに遡れば17世紀以来の中国趣味の脈絡のなかで創作されていることに注意しないわけにはいきません。童話に描かれる中国社会は、東方世界に好奇のまなざしを注ぐヨーロッパ人が想像のなかで創り出した「野蛮」で「後進的」な異国イメージに強く支配されていると考えられます。
 たとえば、皇帝に仕える従者は自分より下位身分の人間と言葉を交わすことを拒絶し、「ピー!」という音でしか返事をしません。皇帝から何か言いつけられたときの返事は「チン・ペー!」です。そして、皇帝の望みを叶えられなかった場合は、お腹を叩かれる決まりになっているようです。これは当時ヨーロッパで浸透していた中国イメージ、厳しい身分制支配の敷かれた前近代的秩序というステレオタイプの反映とみていいでしょう。
 とはいえこのような否定的な中国イメージは、実のところデンマーク社会の前近代性を婉曲的に伝えるメッセージのようにも読めます。オレンボー家(オルデンブルク家)当主を国王に戴くデンマーク王国は、1448年以後、ドイツ語使用者が住むシュレースヴィヒ=ホルシュタイン両公爵領やノルウェーとの間に同君連合を結んでいました。ところが1830年代にさしかかると、ドイツ語領域とデンマーク本国を切り離し、言語領域と政治領域の不一致を解消してスカンディナヴィア言語文化の独立を求める気運が市民エリートの間で高潮します。スカンディナヴィア3国の文化的一体性を根拠とするこの運動は「スカンディナヴィスメ(Skandinavisme)」と呼ばれました。
 そもそもデンマークにとって19世紀は、大国の圧迫に晒されつづける苦難の時代でした。ナポレオン戦争でフランス側に協力したデンマークは、1807年に英国艦隊によるコペンハーゲン砲撃を受け、1814年のキール協約でノルウェーの支配権を喪失します。こうした経緯からデンマークでは、シュレースヴィヒ=ホルシュタインの領有問題が激化するにつれ、強国の領土的野心に対する脅威が高まっていきます。折しも1840年のアヘン戦争で大清帝国が英国に敗退すると、新聞「海賊Corsair」は英国による中国侵略をナポレオン戦争下のコペンハーゲン砲撃になぞらえる記事を掲載します。中国に与えられた否定的イメージは、小国デンマークの置かれた状況に置き換え可能と理解されていたのです。
 このコラムの第2回で言及したように、ナポレオン戦争に前後してウーレンスレーヤが登場し、北欧の歴史や神話を題材とする国民ロマン主義的作品が盛んに書かれるようになります。また、グリム兄弟が行なったドイツ民間伝承の採集に刺戟されてデンマークでも口承文芸に注目が集まり、文学者による農村部に伝わる民衆歌謡(folkeviser)や民衆物語(folkeeventyr)の聴き取り調査が進みました。さらに、牧師詩人N・F・S・グロントヴィ(Nicolai Frederik Severin Grundtvig 1783-1872)は、民衆の言語遺産と精神的諸力のつながりを主張したヨハン・ゴットフリート・フォン・ヘルダー(Johann Gottfried von Herder 1744-1803)に触発され、北欧固有の言語遺産である神話・伝承の再発見に乗り出します。1839年に「デンマーク協会(Det danske Samfund)」を創立した彼は、著作や講話を通じてスカンディナヴィア固有の言語文化の特殊性を訴えました。彼の思想に共鳴し国民共同体の確立を急ぐ知識人や芸術家たちは、民衆の言語遺産である詩歌を「共同の歌(fællessang)」として体系化し、中世から同時代までの代表的なデンマーク語歌謡の普及に努めました。合唱という集団経験を通して国民的自覚を強化するグロントヴィ主義者の企ては、今なお国民高等学校で使用される『ホイスコーレ歌謡集Højskolesangbogen』となって結実します。
このような文学運動はやがて、国民として覚醒した市民の関心をドイツ語文化圏との領土的断絶、国民国家の樹立へと向ける政治勢力の台頭を支えることになります。「ナショナル=リベラル」と呼ばれるこの党派は、1848年3月に第一次スリースヴィ戦争(シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争)の勃発を受けて大規模な民衆デモを実現し、1849年の「六月憲法(Junigrundloven)」制定をもって立憲君主政を打ちたてました。
 到るところで対ドイツ問題に絡んだ議論が交わされる時代状況の中でアンデルセンがどのようなスタンスをとったかは回を改めて考えることになりますが、彼が「ナショナル=リベラル」の指導者オーラ・リーマン(Orla Lehmann 1810-70)と1820年代から親交を結んでいたことは確かなようです。北欧固有の言語文化を社会の一体性の根拠とするスカンディナヴィスメの思潮は、身分格差に苦しめられたアンデルセンにとってもある程度まで魅力的だったでしょう。「ナイチンゲール」の語りにも、言語ナショナリズムへの共感ともとれる描写がみられなくはありません。たとえば、不可解な言葉を話し下層身分とのコミュニケーションを拒否する中国廷臣の姿は、古い秩序に執着するデンマーク貴族あるいはホルシュタイン宮廷のドイツ系官僚の戯画と解釈することもできます。
 ティヴォリ公園で着想された「中国の物語」は、実のところ「デンマークの物語」にほかならなかったのです。となれば、童話の中の中国人従者がナイチンゲールの名すら知らず、しかもその鳥の存在が記述された書物の流通を忌避している様子も、アンデルセンを取り巻く同時代の社会状況と無関係とはいえなさそうです。世にも珍しい鳥の歌声に対する作中の中国社会の反応には、1840年代デンマークの文化状況に対するアンデルセン独自の観察が暗示されているはずです。ここからは、物語の中でナイチンゲールの歌声がもつ意味をデンマーク・ナショナリズムの文脈から読み解くことにしましょう。

第7回写真1

文中マーク

2. ナイチンゲールと民衆世界
 皇帝の都を訪れた旅人たちは、帰国してから郷友たちに中国の様子を語って聞かせたといいます。「学のある人たちは、街と城とお庭のことをたくさん本に書きました」ともいいます。そのなかでもナイチンゲールは、陶製の豪奢な城や広大な庭園にもまして世界の人びとの関心を惹きます。童話には、「詩を作ることのできる人たちは、それはそれは素晴らしい詩を書いていて、そのどれもが深い湖のそばの森で出会ったナイチンゲールのことを歌っている」とあります。
 コマドリよりやや大きい体をして尾は長く、羽毛は褐色、地味な見た目をしたナイチンゲールの姿は、背丈ばかり高く容貌に恵まれなかったアンデルセンの風采を髣髴とさせます。外見に似つかぬ美声をもったナイチンゲールに、アンデルセンは身分や風貌の不利を乗り越えて詩人としての名声を高めてきた自己の姿を投影したのでしょう。
 アンデルセンより前の世代に属するヨーロッパのロマン派詩人たちもまた、ナイチンゲールを愛と情熱と悲劇と美の化身とする観念を広く共有しています。たとえばイギリスの詩人ジョン・キーツ(John Keats 1795-1821)は、「ナイチンゲールに寄せる頌歌Ode to a Nightingale」(1819年)でこの鳥に詩心の永遠性を仮託しました。また、ウーレンスレーヤやイミール・オーオストロプ(Emil Aarestrup 1800-56)といったデンマーク語詩人もナイチンゲールを幾度となく題材に取り上げています。そしてアンデルセンもトルコを旅した記念に、ナイチンゲールにまつわる詩的なメールヒェンを旅行記『ある詩人のバザール』の東洋編に挿入しています。愛と詩情の象徴であるナイチンゲールは、スミルナ近くにあるというホメロスの墓の上に咲く薔薇の花のために命尽きるまで歌を捧げ、古代ギリシャの大詩人と同じ石の下に埋葬されることになります。アンデルセンにとってナイチンゲールは、東方世界の象徴であり、旅する詩人の生き方を表現する重要モティーフでもありました。
 童話「ナイチンゲール」では、世界の人びとが中国で一番すぐれたものとして賞賛するナイチンゲールについて、国の支配者である皇帝や従者はまったく無知であることが語られます。皇帝の治める国の中でナイチンゲールの歌声に親しんでいるのは、貧しい漁師など都の絢爛な生活とは隔絶された民衆的な世界の住人です。ナイチンゲールに対する国内外の評価の落差は、デンマーク国外で先に名声を得てしまったアンデルセンの経歴を反映していると考えられます。物語は、都では謎の存在であったナイチンゲールを宮廷人たちが「発見」し、エリート社会の文化に取り込もうとする過程を描きます。
 前述したとおり、この童話が書かれた1840年代のデンマークは民族精神の根拠を農村部に伝わる古謡や民話に求め、フォークロアの採集活動が盛んに行なわれていました。漁師たちが日常的に親しんでいるナイチンゲールの囀りは、この民衆文化の象徴であるといえるでしょう。けれども、生業に忙しい漁師たちは鳥の歌声の美しさに心動かされはしますが、それを長く心にとどめることはせず、一晩のうちに忘れてしまいます。
 皇帝の命を受けナイチンゲールを探しに出かけることになった宮廷人たちは、厨房で働く貧しい少女の助けを借りることになります。宮廷料理の残飯を海辺の実家に生きる病母に届ける許しを得ていたこの少女は、いわば宮廷を中心とする都市世界と農山漁村世界を往還する媒介的存在といえます。母の許へ帰る道すがらふと耳に入ってきたナイチンゲールの歌声から母のキスを思い出し涙した経験を語る少女は、漁師とは異なり鳥の歌から受けた感動を大切に記憶しています。
 目には見えないけれども地方社会で当然のごとく享受されてきたナイチンゲールの歌声は、民衆歌謡のメタファーと見ていいでしょう。だとすると、幼年時代から自分が身を置いてきた共同体とのつながりを歌のなかに見出し、その感動を周囲に語り伝える少女のポジションは、民衆歌謡に芸術的価値を付与して特権化する国民ロマン主義者に相当すると考えていいかもしれません。第2回コラムで、ウーレンスレーヤの「黄金の角杯」で古代北欧民族の遺物を発見する少女について紹介しましたが、「ナイチンゲール」の賄い少女も、民衆文化と乖離した都市の知識人が素朴な詩的精神へ回帰するための仲介的役割を担っているのです。次回後編では、この少女の働きによってナイチンゲールが皇帝のもとへ届けられてからの物語展開についてお話ししましょう。

第7回文献

文中マーク

著者紹介 / 奥山裕介(おくやま ゆうすけ)1983大阪府生まれ。大阪大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得退学。デンマークを中心に近代北欧文学を研究。共著に『北欧文化事典』(丸善出版、2017年)、訳書にマックス・ワルター・スワーンベリ詩集『Åren』(LIBRAIRIE6、2019年)とイェンス・ピータ・ヤコブセン『ニルス・リューネ』(幻戯書房、2021年)がある。

【お知らせ】奥山裕介先生が『ニルス・リュ-ネ』(写真左;イェンス・ピ-タ-・ヤコブセン著、奥山裕介訳、幻戯書房刊)を上梓されました。イェンス・ピ-タ-・ヤコブセン(1847-1885)は、夭折の詩人で、『ニルス・リューネ』の翻訳は山室静訳『ヤコブセン全集」(青蛾書房、1975年)以来46年ぶりの新訳です。


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