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トーベ・ヤンソン 旅と小説

 トーベ・ヤンソンが亡くなった翌年の2002年、Resa med Tove : en minnesbok om Tove(トーベとの旅:トーベとの思い出の本)というスウェーデン語の本がフィンランドで出版されました(ヤンソンの母語はスウェーデン語です)。この本は、ヤンソンにかかわりのあった23人が書いた比較的短い文章で構成されています。日本語にはまだ翻訳されていません。

  本の表題である「トーベとの旅」は、ヤンソンのパートナーであるトゥーリッキ・ピエティラ(※1)が書いた文章のタイトルです。今回は、この本でトゥーリッキが旅の思い出とともに綴るヤンソンの小説にまつわる旅のエピソードを紹介します。

  トゥーリッキとヤンソンの長期旅行は1959年のギリシャに始まり、それ以降世界各地へ赴きました。二人は旅に出る前に長い時間をかけて旅先の言葉や文化を勉強したといいます。また、旅をするときには予定を細かく決めず、旅先が気に入ると1か月ほど滞在することもあり、ヤンソンは宿泊先だけでなく、旅の途中で生じる待ち時間も執筆やスケッチをしていたそうです。

 トゥーリッキは「トーベとの旅」で、4冊のヤンソンの本『ムーミンパパ海へいく』『少女ソフィアの夏』『太陽の街』『軽い手荷物の旅』にかかわる旅の思い出を振り返っています。

 ヤンソンは、1963年から1964年にかけての冬のスペインとポルトガル旅行の間中『ムーミンパパ海へいく』(1965)の執筆に熱中していましたが、原稿を書いていたノートをなくしてしまいました。ホテルのベッドの後ろでノートを見つけて拾ったのは、トゥーリッキでした。もし、この時ヤンソンがノートを紛失したままだったら、『ムーミンパパ海へいく』の内容や表現は少し違うものになっていたかもしれません。

 二人は、1971~1972年にムーミンの仕事で招かれた日本を起点に世界旅行へ出かけました。その旅行中、アメリカのニューオリンズ滞在時には、ヤンソンは『少女ソフィアの夏』(1972)を完成させ、さらにそれ以降の短編集に収められることになる多くの短編の第一稿を執筆しました。トゥーリッキは、ヤンソンが「小さなキッチンに腰掛け、どんなにはやく書いていたか、どれほど紙が散らかっていたか、そして彼女がどんなにしあわせに満ちていたか、私は覚えている」と、この時のヤンソンの様子を回想しています。

 また、旅先での出来事が小説の題材になることもありました。『太陽の街』(1974)は、世界旅行中にフロリダで滞在したホテルの経験がもとになっています。本作は、老人たちが暮らす街にあるゲストハウス「バトラー・アームズ」が舞台ですが、実際に二人が宿泊したホテルは同じ名前でした。当時、バトラー・アームズには70~90歳代の老女たちが滞在しており、トゥーリッキとヤンソンは50代でしたが、老女たちから「おじょうさん」と呼ばれたそうです。

 最後に紹介するのは、1975年のパリ旅行です。この時ヤンソンは『軽い手荷物の旅』(1987)に収録されることになる短編を執筆しました。彼女は同時に複数の短編を書いたそうです。
 トゥーリッキはこの時にヤンソンが書いた短編として「思い出を借りる女」を例示しています。トゥーリッキは小説の内容には触れていませんが、ヤンソンのノートに書かれたメモを引用しており、「思い出を借りる女」とメモの内容との関連がうかがえます。このメモの中でヤンソンは、旅から帰る人の気持ちを「栄光と恐怖」と表現しました。故郷に帰ることを誇らしく感じるいっぽうで、しばらくの間離れた故郷が出発前とまったく同じではないことにある種の恐怖を感じたのかもしれません。短編「思い出を借りる女」は若い頃に過ごした場所に戻ってきた女性が感じる違和感を描いています。幾度にもわたる旅立ちと帰郷の経験が小説につながったといえるでしょう。
『太陽の街』と『軽い手荷物の旅』については、別の機会に詳しくお話ししたいと思います。


<紹介した本>
Helen Svensson, Resa med Tove: en minnesbok om Tove, Esbo, Schildt, 2002.
トーベ・ヤンソン 著、小野寺百合子 訳『ムーミンパパ海へいく』講談社、2020。
トーベ・ヤンソン 著、渡辺翠 訳『少女ソフィアの夏』、講談社、1993。
トーベ・ヤンソン 著、冨原眞弓 訳『太陽の街』、筑摩書房、1997。
トーベ・ヤンソン 著、冨原眞弓 訳『軽い手荷物の旅』、筑摩書房、1995。
ボエル・ウェスティン 著、畑中麻紀・森下圭子 訳『トーべ・ヤンソン:人生、芸術、言葉』、フィルムアート社、2021。

<注>
※1 トゥーリッキ・ピエティラ(1917-2009)
1917年アメリカ合衆国ワシントン州生まれ。フィンランドを代表するグラフィックアーティスト。ヘルシンキとトゥルクの美術学校をはじめ、フィンランド芸術協会の美術学校(通称アテネウム)で学ぶ。戦争の影響で、才能がありながらも留学はなかなか叶わなかった。戦後、ストックホルムにあるスウェーデン王立芸術アカデミー、フランスではパリのフェルナン・レジェなどで学んだ。トーベとは1955年に出会い、後に生涯のパートナーとなる。1963年、フィンランドの芸術家へ贈られる最高位の勲章フィンランド獅子勲章プロ・フィンランディア・メダルを授与される。男性優位の美術界において、フィンランド美術史に名を残す数少ない女性として活動初期から注目されていた。トゥーティッキ(おしゃまさん)は彼女をモデルにしている。1970年代に入るとムーミンの立体作品の制作に夢中になり、また自身で8 mmカメラを回すようになる。現在、立体作品はムーミン美術館に常設で展示されており、8mmで撮りためた素材は、それらを再構築して制作したトーベ・ヤンソンの三部作映画になったほか、トーベ・ヤンソンやムーミン関連の企画展などで紹介されている。

映画『TOVE』パンフレットより引用

<参考文献>
ボエル・ウェスティン 著、畑中麻紀・森下圭子 訳『トーべ・ヤンソン:人生、芸術、言葉』、フィルムアート社、2021。

<謝辞>
 北欧留学情報センターが開講するスウェーデン語のクラスで「トーベとの旅」の原文を講読し、理解を深めたことで本稿を書くことができました。一緒に読んでくださったヨンソン先生、Nさんに心より感謝申し上げます。


著者紹介 / 小林亜佑美(こばやし あゆみ)
秋田県出身。高校生の時に初めてムーミンを読み、大学で文学・文化・表象論を学びヤンソン研究を始める。
2013年山形大学人文学部卒業、2016年法政大学大学院国際文化研究科修士課程修了。
修士論文タイトルは「理解・不理解の主題から読み解くヤンソン作品の変化:『ムーミン谷の仲間たち』を中心に」。
著作物;バルト=スカンディナビア研究会誌『北欧史研究』第37号に「日本におけるトーベ・ヤンソンおよびムーミン研究の動向」を掲載(2020年)。


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