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アンデルセンと歩くデンマーク文学の歴史

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今さらアンデルセンの話なんて……と思われる向きは少なくないのではないでしょうか。いったい私たちは、次のようなお定まりの書き出しを何度目にしたことでしょう。
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記事一覧

第9回 「私たちのアンデルセン」の誕生、そして……

 1850年5月3日、日刊紙「祖国Fædrelandet」にアンデルセンの詩「デンマークで我は生まれた I Danmark er jeg født」が発表されます。現代でも学校や地域活動の中で日常的に歌われていて、2020年公開の映画《アナザーラウンド》(原題は《飲んだくれ Druk》)にも合唱の様子が描かれていますので、ふたたび観る機会があれば注意してみてください。とりあえず1番だけ訳してみましょう。  デンマークで我は生まれた、そこに私の故郷はある、  そこに私は根を

第8回「ナイチンゲール」を読む(後編)

 ここで物語世界の構成をもういちど確認しておきましょう。宮廷の中の世界は皇帝の支配の下に置かれた人為的制度の領域で、廷臣や従者たちはその秩序に従って生きています。その支配を象徴する文明的な装置が、整然と設計された巨大庭園です。世界の諸物を集約し人びとに誇示するという、近世以後のヨーロッパにみられたコレクションの欲望を具現化したこの庭園は、皇帝の支配領域の広さを示す指標になっているのです。  ナイチンゲールの生きる森の世界は宮廷的秩序の外側に広がる自然の領域で、そこには漁民

第7回「ナイチンゲール」を読む(中編)

 前編に訳を掲載した童話「ナイチンゲール」、みなさん読んでいただけたでしょうか。 前々回(第5回)にもお話ししましたが、アンデルセンの童話は架空の舞台にデンマークの同時代状況が織り込まれていて、多くは作家の実人生での経験が創作の源流になっているのです。現在の批評理論では文学表現のメッセージ性を作者の伝記的事実に還元する議論は読みの幅を狭める陳腐な手法と見なされていますが、アンデルセンの創作童話がそれ以前の民間伝承としてのメールヒェンと大きく異なるのは、作者の実人生

第6回「ナイチンゲール」を読む(前編)

 さて、お約束していたとおり今回は、アンデルセンの実人生に主軸を置いた過去5回のコラムとは趣向を変えて、彼の童話のひとつ「ナイチンゲールNattergalen」を読んでみることにしましょう。デンマーク語が読める方は、王立図書館のウェブサイトで原文が公開されていますので、ぜひ挑戦してくださいね。 ナイチンゲール 中国では、皇帝だって中国人なのですよ。皇帝がまわりに侍らせているのはみんな中国人です。もうずっと昔のお話ですが、だからこそ忘れてしまう前に、このお話を聴いてもらう値打

第5回「テクノロジーの魔法」

 いきなり時代が飛びますが、世界にその名を知られた物理学者アルバート・アインシュタイン(Albert Einstein 1879 – 1955)は、ナチスの台頭を危ぶんで1932年に合衆国への移住を決しました。ドイツに残してきた息子宛ての12月23日の手紙には、科学的問題への熟察が綴られるとともに、最近読んだ本についても触れられています。スピノザの生涯などを含むそれらの本の中に、アンデルセンの童話も含まれていました。とりわけ印象に残ったのは、中国を舞台に皇帝と小夜啼鳥と機械仕

第4回「沼地に生えたオレンジの樹」

◆『即興詩人』はコペンハーゲンのライツェル社から刊行され、ドイツ語訳は複数回にわたり版を重ねました。もっともアンデルセンは、ドイツ語訳者ラウリツ・クルーセ(Lauritz Kruse 1778-1839)がつけた『あるイタリア詩人の青春生活と夢 Jugendleben und Träume eines Italienischen Dichters』という題には不満を呈したようですが。『即興詩人』は、以後10年ほどの間にスウェーデン語、英語(イギリス、アメリカ合衆国)、ロシア語

第3回「南へ」

14歳で俳優を志しコペンハーゲンに渡ったアンデルセンは、その後作家に転じてから29回の外国旅行を経験しています。「旅することは生きること(At reise er at leve)」という言葉を遺し、小国デンマークのムラ社会の外へ幾度となく飛び出したアンデルセンは、未知なる異国で脳裏に刻まれた鮮烈な印象を、数々の紀行文学に結実させています。その最初の試みが、コペンハーゲンの市壁を抜けて運河を越えた先にあるアマー島へ足を伸ばした体験を語る『1828年と1829年のホルメン運河

第2回「アラディンはデンマーク人」

14歳にして俳優を志して故郷を出たアンデルセンは、1819年9月6日に「私の世界都市(min Verdens Stad)」コペンハーゲンの西門をくぐりました。ローカルな牧歌的世界から抜け出て近代ヨーロッパの玄関口に立ったこの少年の目に、ただならぬ光景が飛び込んできます。街じゅうにあふれた群衆が、ユダヤ人の営む商店を破壊する、騒然たる有り様。「ユダヤ闘争(Jødefejden)」と呼ばれる排他的運動が高潮していた頃で、アンデルセン到着の前晩にも暴動が起こったばかりでした。180

第1回「靴屋と劇場」

アンデルセンが産声をあげた19世紀の初め、デンマークは総人口100万人に満たない田舎じみた小国でした。首都コペンハーゲンの人口は10万人で、これもなかなかこじんまりとした世界なのですが、アンデルセンの故郷オーゼンセは国内第二の都市ながら人口はわずか6千人に過ぎず、首都とのあいだに大きな隔たりがありました。 この小さな世界に生きたアンデルセンの父ハンス・アナスン(Hans Andersen 1782-1816)は、貧しい古靴修理職人だったといわれます。けれども、彼が中世以来の

序文——北欧を旅する人の「幸福の靴」となることを願って

さあ、お話をはじめますよ! ……などと威勢よく語り出すことができればいいのですが、ここでお目にかける文章は、アンデルセン紹介としてはずいぶん無愛想に思われるかもしれません。といいますのも、すでに周知されて久しいハンス・クリスチャン・アンデルセン(Hans Christian Andersen 1805-1875)の名を語ることは、いまいち気合いの入れどころがわからない、芯でとらえようのない仕事にも思われるからです。 みなさんにとってもおそらく同じことで、今さらアンデルセ