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夢の中の声を思い出せるか

20年ほど前から、夢日記をつけだしては三日坊主で辞めるということを繰り返している。だいたい3か月周期ぐらいで、発作的に書きたくなる。

確か唐沢俊一だったと思うが、昔読んだ本に「夢日記は精神をやられる」とあって、確かにつけている時は具合がよろしくない。

要は夢の内容を鮮明に覚えていられるほどに眠りが浅い=脳が休まっていない、更に起きてすぐにそれを書留めるという頭脳労働、それを毎日、これは歯車のどこかが狂って当然という気はする。

すぐに書かないと忘れてしまう、というのも困りものだ。個人差はあるのかもしれないが、僕の場合どれだけ強烈なインパクトがあった夢でも、30分程度でディテールが崩れだし、2時間も経てばあらすじを再現することすら困難になる。映画を観たり小説を読んだ後に、こんなことは絶対にない。

脳科学や心理学には全くの門外漢だが、確か夢は「起きている間の記憶がバラバラに繋ぎ合わさったもの」という説明を読んだ覚えがある(小学生向けの学習本で)。起床して正常に機能し始めた脳ミソが、バラバラになった記憶たちを大急ぎで元の位置に収めるから、夢は覚えていられない、という理屈はわかる。

夢日記はその修復作業に待ったをかけて、無能な管理職ばりに「俺が書くまでそのままにしとけ!」と無理やり脳を異常なままにしているわけで、これが「夢日記は精神をやられる」一番の所以かもしれない。

夢は消えても、夢を構成する個々のエレメント自体は消えたわけではないから、後日に似たような夢や舞台が同じ夢を見ることは当然ある。しかし、僕自身は見た記憶はないが「全く同じ夢」や「昨日見た夢の続きっぽい夢(これは僕もよく経験する)」はどうだろう。ベースとなる一つの夢が、エレメントに分解されずそっくり保存されていたとしか思えない。

門外漢の仮説を重ねると、これは夢日記をつけたり意識的に夢を思い返すことで、分解前の夢がそのまま、「起きている間の記憶」として固定化され脳に刻まれたからではないか。あるいは、それほど能動的なアプローチでなくとも、夢の消去中に無意識的に記憶してしまうことも珍しくはないのかもしれない。



冒頭に挙げた唐沢俊一の本(唐沢なをきと共著のコミックエッセイ)で、「やっぱりつげ先生はすげぇな」とかいう記述もあって、その時初めてつげ義春の作品の多くが夢の描写なのだと知った。

その前に「他人の夢の話を聞かせられるほど苦痛なことは無い」とかも書かれていて、激しく同意した覚えもあるが、つげ義春を始めプロの作家が著した夢はやはり別格の趣きがある。

非理性的なシュールレアリスムや幻想小説の類は、かなりの作品が夢の影響を受けている(というかほぼ全てと言ってしまいたい、夢でなければ酒かクスリだ)はずで、つまり彼らは夢日記のプロであって、つまり精神を著しく/完膚なきまでにやられている方々であって、確かにほとんどの人がはっきり言ってキチg

夢日記や夢の描写を彷彿とさせる作品は、すなわち作者の主観がダイレクトに表現されているものなので、僕の大好物ではあるのだが、それは学術的な批評とは無縁の嗜好だ。主観に対して客観を返すことはできない、これは何度でも書く、僕のポリシーを通り越したアイデンティティ。

よって、「この小説好きなんだよね〜」とはしょっちゅう言うが、「じゃあ書評書いてみて」とか返されても、夢日記的作品については書けない。「オートマティズムを土台とする実験的な手法のうちに、社会に対する作者の冷静な視線を〜」などという構造的アプローチや安易な類型化で、分析したつもりになるだけのものを書くつもりはない。

それでなくとも、上記したように他人の夢の話(夢日記)は本来、客観的理解を超越した読むに耐えないシロモノである。プロが書いてるから趣きが出ているけど、ぶっちゃけハロー効果も結構ある。

蛇足のそもそも論、主観的に「いいな」と思った作品について、更に客観的な理解を試みたり批評をすることに、どれだけの意味があるのか。「客観的な裏付けがないと、本当にそれが好きなのか自分でもわからない」と宣言しているようなものだ。あるいは、「それのどういう所が好きなのか、他者には客観的に説明できないといけない」という幻想である。

この小説好きなんだよね〜


手前味噌だが、僕自身は結構面白い夢を見ることが多いと思う。単純にフィクションとして楽しめる、物語調のやつ。夢を俯瞰する視点、夢の中の自分を見ている、夢見る自分というメタなアレが多く、観客気分になれるので寝るのが結構楽しい。まあたいがい、夢の中の自分は別人格になってるんだけど(心理学的には、現実の自分に問題を抱えてるってなりそう)。

そして、毎日、鮮やかな夢を見た。総天然色のワイドスクリーン、恋愛モノから連続活劇まで、なんだってあった。自分のなかのどこにそんなものが用意されていたのか、首をかしげざるを得ないほどだ。

*北野優作『クラゲの海に浮かぶ舟』より

面白い夢を見出す時はまさにこういう状態で、自分の創造力も捨てたもんじゃないな、といい気になる。誰かラノベにして売ってくれよ、てなもんで、せっかくだから書き留めておきたくなる。構文力が壊滅的なので、自分で書くと小説はおろか日記以前の断片、プロットもどきになる。

そんで、本格的に精神が殺られる前に飽きて辞める

余談……というか記事のタイトルなのだが(今更)、夢を思い出す時、全てが無声映画となるのは僕だけだろうか?

登場人物たちのセリフ/言葉はあるはずなのだが、その声がどのような声だったか、誰の声だったか、記憶はおろか印象すらない。そうなると、果たして本当にその言葉自体があったのか、本当に喋っていたのか、俄然怪しく思えてくる。

その言葉は、どのようにして夢の中に登場/反映されたのか?  字幕映画のように、映像に合わせて文章が表示されたのか、夢を俯瞰している夢見る自分が、映像に合わせて言葉を「思考」していたのか?  あるいはまた、それは言語化できない言葉という極限の矛盾、「夢の中での言葉/声」というクオリアなのか?

誰か夢の中の声を覚えている人がいるだろうか。


スカイスーツ、アナログな翼(舵?)の付いたウェットスーツ、マリンスポーツ、水面を走り、あるいは飛ぶ、折りたたまれた翼、マントのように、ヒーローのように、応用された技術、海難救助の革命、水面に降り立ち、抱え、また飛ぶ、英雄的な一匹狼、ニヒリストのサルベージャー、邂逅とスカウト、古くからの親友のように、二人の海の守護神

助けられた海獣の子ども、完璧な親友

理想的な一家、海獣の子どもをトランクに入れて、アドベンチャーワールドに行こう、子供は心配する、大丈夫死にはしない、着いたらすぐに施設のプールに入れて、快適に、おずおずと、海の友人にご挨拶、子供は誇らしげに海と空を駈ける父を眺める、やがて自分もそれを習う

唐突なシフト、絶海の世界の最果て、モノトーンの山岳、集められた子供、崖を下る試練、タイムカプセル、世界の終わり、通過する100人、タイムカプセルで選ばれた予定調和、伸ばした腕、崖の下の集合、防護マスクの軍隊、何かが始まる

見守る海獣の子ども、完璧な親友

唐突なシフト、終わった世界、一瞬の幻影…世界を覆う半透明の怪物の群れ、最果てに生きる人、絶対の無力、森の中の狩り、ささやかな共存の幸福、ぼんやりと意識するパラレル、タイムカプセルの100人、人類の種を保存する

人類のリーダー、英雄との共同生活、一家の中の異物、しかし古くからの友人のように…見つけだした麻薬、絶交の通告、ニヒリストの笑顔、寂しがる子供、やや発達した文明、横たわる英雄を調べる医者、精神を解放する装置、英雄の世界が顕現する、世界を覆う半透明の怪物の群れ、はっきりと思い出すパラレル、タイムカプセルの100人、かつて受けた試練、英雄との融合実験、分離する意識、統一される身体、ふざけたニヒリスト、空を飛ぶヒーロー

地中に生きる海獣の子ども、朽ちたトンネルで怪物に怯えて這いずる

フォローとサポートの違い理解してなくて、調べてみてビビる