【神奈川のこと67】初直帰の快感(横浜市金沢区福浦/日本ロックタイト社)

この一年、振り返ってみると仕事ばかりしている。

のめりこむように。

よって、これを書く。

平成5年(1993年)、新卒で入社した会社は、「産業見本市主催業」という当時ではとても珍しい業態であった。

幕張メッセや晴海の見本市会場(現在は東京ビッグサイト)で、様々な産業の見本市を企画し、営業活動で出展企業を誘致し、何万枚もの招待券を送付して来場者を呼んだら、当日の会場運営までやっちゃうという仕事だ。

宝飾や眼鏡の国際的な見本市では、併催イベントで、芸能人やその年の話題になった人なんかを招待してベストドレッサー賞を開催。マスコミもわんさかやってきて、それは華やかであった。また、その他にもエレクトロニクスや、コンピュータ、文房具などの見本市もあった。

私は、その中で、最も地味な部類である、「機械部品」の見本市の担当となった。ベアリングやモータ、歯車や工業材料と言った、日本の製造業を支える機械要素メーカに対し、見本市への出展誘致のための営業活動を日々行っていた。

私の主な担当は、

「ねじ」。

も一つ言うと、

「ばね」。

ありがとうございます。

究極の機械要素だ。これなかりせば、機械は何一つ動くことができないのである。

多くの社員がいわゆる山手線の内側で営業活動を行う中、私は、足立区や大田区、墨田区や埼玉県などに出かけていった。

上司は、私より8歳上の次長、K村さん。

当時、日本で営業の強い会社の3本の指に入る、リクルート出身。ちなみに他の2社は、野村証券と日本IBMと言われていた。

営業の帰りはいつも叱られた。

「元気がない」。

「何で『出展しませんか』の一言が出ないのか」。

「本当に売りたいと思っているのか」。

毎回落ち込んだ。

機械油の匂い漂う工業団地の歩道で、はたまた、向いの道で学校帰りの学生たちが笑いながら話す姿を恨めしく見ながら、うつむいた。資料を一杯詰め込んだ重い営業カバンが指に食い込む。

そのK村さんが、全国ねじ産業総覧という日本のすべてのねじメーカが掲載されている本を買ってくれた。それを見て片っ端から営業をかけた。

また、ねじとばねを合わせて10誌ぐらいの業界誌があったので、そこに広告を出している企業にも電話をかけまくった。

「月刊ねじ」、「ねじの世界」、「全国鋲螺新聞」、「ファスナーレポート」、「月刊ばね」など。

そんな日々を過ごす中、営業の先輩社員たちが、何気なくさらりとやっていたのが、「直帰」であった。

いかにも、上手いこと「その時間しかアポイントメントが取れませんでした」という顔をして、「行ってきます、直帰で」とやっていた。

オフィスを出た瞬間、絶対にニヤリとしているはずであった。

入社一年目なので、既存顧客もへったくれもありゃしない。ましてや、自分の都合のいいようにアポイントメントなんか取れるはずもない。

いつしか「直帰」は憧れとなっていた。

チャンスはやってきた。

上述の業界誌やねじ産業総覧で見つけたか、日本ロックタイトという会社があった。

ねじの永遠のテーマは、「ゆるみ」である。

このロックタイトは、外資系の接着剤メーカで、ねじの溝に付ける接着剤を作っていた。それによってねじの「ゆるみ」を防ぐというものだ。

明らかに出展対象だ。

場所は、横浜市は金沢区福浦にある工業団地。

JR京浜東北線「新杉田」の駅から、シーサイドラインというおもちゃみたいな電車に乗ると行ける。

何とか夕刻にアポイントメントが取れた。

恐る恐る上司のK村さんに直帰したい旨を申告。しぶしぶOKが出た。本当は、K村さんも直帰が出来るから渡りに船だったに違いあるまい。

おもちゃ電車のシーサイドラインに揺られて、「福浦」駅で下車。

日本ロックタイトの見本市担当者と面会し、営業した。

全くもって、ダメであった。「暖簾に腕押し」とはこのことを言う。

私の浅い営業トークでは、ロックタイト製の接着剤のように固く締められた担当者の心をゆるませることはできなかった。

帰り道、おもちゃ電車の中で、例によってK村さんに叱られた。

だが、心は人生初の直帰に浮き立っていた。早く新杉田に着けと。

新杉田駅でK村さんは上りホームへ、自分は下りホームへと別れた。

下りの京浜東北線が磯子方面から入線。ブルーの車体は希望の光に包まれていた。ドアが閉まって洋光台駅に向けてガタンと動き出した瞬間の、あの解放感は言葉で言い表すことが難しい。

一人前のビジネスパーソンになれた気がした。味をしめた。よし、これからは先輩たちみたいに、嬉しさを噛み殺しながらすまし顔で「今日、直帰」と言うのだ。

帰り道に何をしたかは忘れた。

当時は酒飲みではなかったので、そのまま帰宅したのだろう。

酒が飲めたなら、行きつけのバーや小料理屋にでも寄りたいところだ。

そして、マスターや女将さんに、「あら、早いわね」なんて言われて、すまし顔で「今日、直帰でして」と答えるのだ。

あれからまもなく30年。

毎日叱ってくれて、ねじ産業総覧を買ってくれて、そして人生初の直帰を許してくれたK村さんに感謝。

全てが終わったら、福浦工業団地の外れにあるへリポートで風に吹かれるとしよう。







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