【神奈川のこと46】嗚呼、仮入部(鎌倉市/手広中学校)

仮入部の季節なので、これを書く。

昭和58年(1983年)4月、鎌倉市立手広中学校に入学。

バスケットボール部(以下、バスケ部)に仮入部した。

あれは確か西鎌倉小学校5年生の頃、校庭の一画に突如、バスケットボールコートが姿を現した。この出現により、これまでのドッジボールに取って代わって、一気にバスケットボールが盛んになった。以来、小学校を卒業するまで、来る日も来る日も、休み時間にはバスケットボールをやった。

そんなことから、多くの男子がバスケ部に入ってきた。

仮入部の期間中に、鎌倉市立第一中学校(通称、一中)のバスケ部が試合にやってきたので迎え撃った。我々、手広中の圧勝であった。

それを見ていたのが、一つ上の代、女子バスケットボール部(以下、女バス)の先輩たちであった。

「あんたたち、絶対辞めちゃダメだよ!」

「びっくん、ちゃんとバスケ部に入りなさいよ。」

校内で会う度に言われた。

その度に、笑ってごまかした。

なぜならば、本入部はできない運命にあったからだ。

鎌倉リトルリーグ所属のリトルリーガーだったので、中1の夏まで大会があった。一応、世界大会までつながる大会で、リトルリーガーとしては、最も盛り上がる時期だ。

だから、運動部に入ることはできない。はじめからそのつもりで中学校に入学した。仮入部期間が明けたら、去るしかない。そういう運命なのだ。「それがリトルリーガーの辛ぇところよ」と、半分誇らしげに思っていた。

でも、一つ上の女バスの先輩たちが熱心に誘ってくれたのは、とても嬉しかった。それまで感じたことのない、言い知れぬ心の高鳴りがあった。

この女バスの先輩たちは、とても個性的だった。

まず、リーダー格でみんなのアイドル、ちんぱ。真面目で優しいN田、ひょうきんで親しみ易いO山、背が高くて美しいT嶋、そしてファンキーな、りえき。以上、敬称略。あともう一人、綺麗で上品な感じの先輩がいたはずだが、失念した。

この個性的で素敵な女バスの先輩たちに、「びっくん、続けなよ~」とか、「野球やってるなら、日曜だけ休めばいいじゃん」なんて言われると、「そんな訳には行かないっすよ」なんて言いながら、内心はたまらなく嬉しいのであった。それを言われたいがために、用もないのに2年生の階に寄ったりした。

そして4月末、とうとう仮入部期間は終わった。

運命の通り、バスケ部には入らなかった。

でも何かの部活動には入らなければならなかった。

「生物部」に入った。

「なまもの~」と友達にからかわれた。

やや屈辱的であった。

週に一度、木曜日の放課後、理科室に集まった。

そこには、大流行する前のウーパールーパーや、亀なんかを飼育しており、それらを観察し、絵を描く。

意外にも、この観察しながら絵を描くひと時は、没頭し、心が鎮まった。邪念が消えていく感覚とでも言いましょうか。「俺、この作業好きだ」と思えた。

顧問の重松先生が「よく描けているね」と褒めてくれる。すると、妙な自信が湧いてきた。

その内、女バスの先輩たちは諦めたのか、もうこの「スポーツ刈りの生物部員」には、声をかけなくなった。とある先輩とだけ、ちょっといい仲になったが、それも数ヶ月で終わった。

2年生に上がると、程なく野球は辞めてしまった。そして、陸上部に入った。

そこには、美女4人組の一つ上の先輩たちがいた。

一列に並び、バトンを「ハイッ、ハイッ、」と渡しながらウォーミングアップを行う姿が、これまた実にアトラクティブであった。

このことはまたいずれ書くとしよう。


リーダー格でアイドル的存在であった、くだんのちんぱ先輩とは、数年前から年に1,2回、地元で開催する同窓会で顔を合わせるようになった。

会う度に、「びっくん、あんた何であの時バスケ部入らなかったのよ!」と怒られるのではないかと、びくびくするのだが、当の先輩はそんなこと忘れているようだ。毎回、「同窓会を開いてくれてありがとう」と、優しく語りかけてくれる。

あの時に放っていた素敵なオーラは、今も健在。いつまで経っても、一つ上の憧れの先輩である。

嗚呼、仮入部。

真新しい体育館の匂いと共に、恋と憧れの中間のような、くすぐったい想いが蘇る。

たかが中2、されど中2。

一つ上の女子の先輩たちは、とても大人に見えた。






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