【神奈川のこと31】名代 箱根そば(小田急線/相模大野駅)

昨日は、13時に町田へ行く予定が、11:42に目覚め、焦った。でも早業で準備し、カミさんに藤沢駅まで送ってもらい、12:20発の快速急行に乗ることが出来たので間に合った。町田で一仕事を終えてから、母校、東海大相模に用事があったので、途中の相模大野駅の箱根そば(以下、箱そば)でその日、最初の食事をした。よって、これを書く。

相模大野駅の箱そばは、下りホームの先端にある。そして、箱そばと言えば、「天玉うどん」だ。何をおいてもこれなのだ。たまに、夏の暑い日なんかに、「冷やしナントカ」というメニューに目が行き、注文するが、食べ終わると、「やっぱり天玉うどんにしておけば良かった」と考える。ちなみに「そば」ではなく「うどん」である。選択の余地は、「玉子を入れるか否か」のみ。玉子が入っていなければ、それは「かき揚げうどん」という名称に変わる。

「はい、天玉うどん、お待ちどおさま」とカウンターで渡される。まずは、その美しい出来上がりを数秒間、愛でる。かき揚げ、うどん、ワカメ、玉子、そしてネギが漆黒のつゆの中に絶妙なバランスできれいに盛り付けられている。それはまるで、即席で描かれた絵のようだ。

手を合わせて、「いただきます」と小声でつぶやき、サッサッサッと七味をかけたら、まず一口、おつゆをいただく。慣れ親しんだ出汁の味が口の中の隅々まで広がる。幸せを感じる瞬間だ。昔、関西出身の高校の先輩が、「俺はどんぶりの底が見えないこの真っ黒なつゆが飲めないんだ」と言っていたことを思い出す。はじめの内はできるだけゆっくりと、この「きれいな絵」を崩さないように食す。続いて麺をいただくが、ガバッと箸を入れると全体が崩れてしまうので、そっと1,2本をいただく、ワカメも一緒についてくる。それから、まだつゆに浸かり切っていない、かき揚げのサクサクとしたところを慎重にかぶりつく。

問題は、「いつ玉子を突いて崩すか」なのだ。玉子を突き崩した瞬間から全体の均衡が崩れ、カオスとなる。そのタイミングに迷いつつ、意を決して、黄身の真ん中めがけて箸を突き刺そうとした瞬間、「ファーン!」とロマンスカーが警笛を鳴らしながら窓の外を行き過ぎる。不吉な予感が一瞬よぎり、手が止まる。気を取り直して黄身に箸を突き刺し、そこから一気に食べきる。食べ終えたら、冷たい水をコップ一杯飲み、口の中に残る後味を流す。

あれは、昭和62年(1987年)、高校2年生の頃。当時の相模大野駅の箱そばは、現在と同じ下りホームの先端にあったが、駅そのものの作りがずい分と違っていた。今は、とても立派な駅となり、ホームの上には駅ビルがどっかと建っているが、当時は全く何にもない、ただホームが二つ並んでいるだけの駅であった。箱そばの建屋は、下りホームの先端、階段の下の鋭角になったところにドアストッパーが挟まるように存在していた。南向きに開かれた建屋には解放感があった。

そのカウンターの中には、「名物オヤジ」がいた。「はい、はい、はい、天玉うどん、(ザッ、ザッ、ザッと手を動かしながら)」と一定のリズムを刻みながら、客の注文をつぶやくように繰り返しつつ、無表情で作っている。たまに、さがじょ(相模女子大高校)のバスケ部の生徒が「おじさん、ネギ抜きで」と透き通った声で言う。それでも「はい、はい、はい、ネギ抜き、(ザッ、ザッ、ザッ)」と表情一つ変えず、そのリズムを刻む。

台工(相模台工業高校)のいかつい兄ちゃんも、さがじょのバスケ部の女の子も、母校、東海大相模の学生も皆、この名物オヤジの刻む一定のリズムの中で、黙々と食す。

その横を、新宿から10両編成でやってきた小田急線が、「切り離され」て、「前6両 急行箱根湯本行き」となり、ゆっくりとレールを軋ませながら行き過ぎる。その後、残された「後ろ4両 各駅停車片瀬江ノ島行き」が軽快に東林間へ向けて走り抜ける。

名物オヤジの「はい、はい、天玉をうどんで一つ~」というつぶやくような声と湯切りの「ザッ、ザッ、ザッ」というリズム、食器の当たる「カチカチ」という金属音、換気扇の「ブォーン」という無機質な音、そして、その横を風を切って進む車両の音。

まさしくそれは、アンサンブルであった。


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