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「二人麗子図」の〈謎〉について考えてみる。


「二人麗子図」を考えてみる

友人のNさんが岸田劉生さんの「二人麗子図」を展覧会(モネからはじまる住友洋画物語、2020 3/14-5/17)で、見たという感想を電話で伝えてきた。どうも作者の意図が理解できないと言う。それで、「二人麗子図」について考えてみた。Nさんが送ってくれた展覧会のフライヤーを参考にしながら、思いを巡らしてみた。

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「二人麗子図」には、麗子が二人描かれている。麗子の髪の毛をもう1人の麗子が整えているという超現実的な構図である。フライヤーでは、髪の毛を梳いているのか、髪飾りをつけようとしているのかが判然としない。

実際に見る、二人の麗子の美しい着物を纏った写実表現は、本当に、素晴らしかったとNさんは言っている。

なぜ、岸田劉生さんは二人の麗子を描いたのか、岸田麗子さんを母に持つ岸田夏子さんの著書『肖像画の不思議 麗子と麗子像』を読むと、その理由の片鱗に触れることができるかもしれない。


〈なぜ、二人なのか〉考えてみる

〈なぜ、二人なのか〉ということを考えていると、京都のレティシア書房で2018年に開催したグループ展で、人物を二人並べて描いた自作のことを思い出した。
わたしも、同一人物を二人繰り返して描いていた。

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今思うと、動きのないポーズなので、形をはぎ取って解体し、画面を思いきり抽象化したら、何か、抜け道が見つかったかもしれない。

最初は、大下君を3,4人増やしてポンポンと印刷して配置したらいいやとか思っていた。大体、プリントすることは楽しい遊びのようなものだ。木版にしても、シルクスクリーンにしても出来上がりの印刷面を見る瞬間に楽しさが凝縮している。大下君を好きなだけ増やせば楽しいし、おそらく、うまく纏まるだろうと感じていた。

しかし、そのうちに、大下君のフォルムを2回繰り返せば、何か始まるだろうと方向転換した。2回で十分、絵の不思議な世界が表現できるのではないかと思っていた。

風景は公園の針穴写真を使うことにして、その景色に染まり、風景に溶け込んでいく人物が表現のテーマになった。人物の半袖の腕は、風景が被さって公園の一部になって、刺青のようだなと面白さを感じていた。

また、繰り返すことで、同一平面に2つの時間的な経過を描き込むことができるかもとも思っていた。なんと欲張りなことだろう。二人麗子像のような向き合い方ではないけれど、同一人物を繰り返し描いたという点では同じだ。でも、動きがないのは、あまりにも安易すぎて恥ずかしい。もう少し、動きに踏み込んだ考えが必要だっだと思うと、やっぱり恥ずかしい。


なぜ、人物を2回繰り返すと、ドキッとするのだろう。

「二人麗子図」は、麗子と麗子が別人のごとく着物を変えているし、違う動作で、収まっている。麗子と、もう一人の麗子の関わっている時間が、画面上で、交差しているというか、縺れ合っている。そして、〈何か不思議〉と思う気持ちが、見る人を〈謎〉に巻き込んでゆく。


「壺の上に林檎が載って在る」

「二人麗子図」の詳細を調べようと検索していると、大きな壺にある小さな口に青いリンゴを置いた静物画があった。


「壺の上に林檎が載って在る」というタイトルが付いている。わざわざ、こんな風に林檎置いてしまう作者の意図について考えると「二人麗子図」の謎に接近することが出来るかもしれないと思ってしまう。

自分だったらどう描くだろうかと考える。林檎も描きたくて、大きな壺も描きたいとすると、林檎に対して、壺の大きさのバランスが悪い。下に林檎を置けば壺の大きさに圧倒されてしまう。だから、ちょうど、目の高さの位置にある壺の口に林檎を置く。見る人の視線を最初に捉えて離さない林檎。林檎も主役、そして、もちろん、大きな壺も主役なのだと思えてならない。ただ、ただ、林檎も壺も描きたかった岸田劉生さんの意思が見えてくる。


お人形の着物の模様

この間、油絵の画像ファイルをポートフォリオ(作品集)を作成してもらっているMさんに送ると、絵に描いている市松人形が気持ち悪いという。

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このお人形は、昔から家にあったもので、ひな祭りのひな壇には大抵飾っていたし、わたしにとっては、全然恐れる対象ではなく、今は、普通に、部屋のガラスケースの中に置いている。

Mさんは人形が寝ているのが怖いと言いつつ〈市松人形〉を検索し始める。お人形は着物の模様も描いていると楽しいし、ちょうどドライフラワーにしていたホオズキも描き終わったので、題材に加えてみた。

寝ていると言えば、川に横たわっているオフィーリアとか、ピエタと呼ばれている、マリアがキリストを抱く画像が思い出されるのだけれど、人形は座ることが出来ず不安定で、倒して壊れそうなので、水平にして置くのがいいと思っていた。昔の歴史の本に、お地蔵さんを引きずり回して遊ぶ子供たちのことが書かれているけど、そんな感じによく似ている。結局、この絵は、描きかけで終わってしまったけれど、人形もお地蔵さんのような扱いになって静物画の中央に収まってくれている。

絵を描く人たちは、絵を描かないと生きた心地はしないと思う。それで、常に題材を探している。時々、「何を描いていいかわからなくなった。。」などど一回は、心細くなって、口にしているはず。しかし、題材を探しているのは確かだけれど、題材だけには縛られていない。人によって違うかもしれないけど、描いているうちに、思いも絵も、自然と変わっていくから不思議だ。

岸田劉生さんの〈何を描くか〉という問題は、麗子さんが解決への糸口を、いつも、握っていたのではないかと想像しています。


〈謎〉は2度繰り返されることで生まれる

着物の模様のことを思い出したので、脱線してしまった。

元に戻して、「二人麗子図」の、〈なぜ二人なのか〉という〈謎〉を考えてみると、〈謎〉が深まるからだと思う。〈謎〉は2度繰り返されることで生まれ、物語が始まる。

三人ではなく(三人以上だと群像になってしまう)、二人の人物を繰り返すことで、〈謎〉が生まれ、〈謎〉を解きたいという欲望がある限り、〈謎〉は続いていくし、物語のページは捲られることになる。そして、〈謎〉はずーっと輝きを放つのではないだろうか。

二人繰り返すことで、〈謎〉にまみれる不思議さ、超現実世界の構築、未知のものに対する昂揚感、その中に、四角い小さな花瓶も登場して画面は構成される。

麗子は過去の自分自身の髪を整えているのかもしれないし、麗子はもう1人の未来の麗子に会って髪飾りを付けているのかもしれない。そんなことを想像していると、小松左京さんの短編の中に、哲学の道を散策していると、若い、学生時代の自分に出会うという作品があったことを思い出した。


一月に、岐阜県美術館で岸田劉生展が開催されたので、「二人麗子図」は展示されているかどうか聞いてみたら、残念ながらないということだった。

いつか、どこかの展覧会で〈二人の麗子〉に会えたらいいなと思う。

* 〈謎〉については、友人のTさんからもらった、明るい黄色の表紙の、美しい文庫本の『他者と死者』(内田樹著)を参考にしました。



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