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美術と著作権について知っておきたいこと

 誰かが作った作品は、著作権法において保護される。それはほとんどの人が常識として理解していることではあるけれど、ではどのように法律で定められているかを詳細に知ろうとすると、著作権法という法律の複雑怪奇さに驚くことになる。そうした複雑さをとりあえず棚に上げて巷では、映画館で上映前に流れる映画の違法複製やダウンロードについて警告するパントマイムの動画や、番組の違法アップロードを犯罪だと指摘するテレビCMのように、著作権法のエッセンスだけでも理解してもらうための啓発活動が行われている。このようなシンプルなメッセージにでもしないと、誰もが著作権法を理解するのは不可能なように思われるからだろう。
 だがそうしたシンプルなメッセージは、往々にして人々を脅すような常套句を展開しがちである。著作権を侵害する可能性があるのは作品を受け取る側の人々なのはたしかであり、責任を問われた場合に不利益を被る可能性を指摘するのは悪いこととまでは言えない。しかし、本来、人々には作品を享受して使用する自由があり、著作権法はその自由に例外を設けて制限する法律であるということは留意しておきたい。
 著作権法の目的に立ち返ると、それは文化の発展のためにルールを設けて、人々の文化活動が活発になるような土壌をつくることにある。作者の利益が保護されなければ、創作活動をしたいという意欲もなくなるし、それは社会にとってマイナスだ。その一方で、作品を享受する人々の自由を制限しすぎると、その中から新たな作品が生まれる可能性を奪ってしまう。多くの作品は、まったくのゼロから作られるのではなくて、先人たちの作品からさまざまな示唆を得て作られるからだ。文化の発展のためには、権利の保護と享受する自由のバランスをうまくとれているかが常に問題になる。
 歴史的に著作権法は、どのように著作者の利益を保護するかを考えて作られ、改正が重ねられてきた。その性質上、作品を利用するユーザーの権利を同時に定めているわけではない。山田奨治は『著作権は文化を発展させるのか: 人権と文化コモンズ』(人文書院、2021)で、著作権をめぐる権利概念を再考し、ユーザーの権利の側から著作権を構想しなおすことを提起している。山田によれば、著作権は法律によって定められた特殊な権利であって、その根拠を人権に求めることはできない。だが、逆に作品を利用するユーザーの権利は人権として基礎づけることができるという。このような発想の転換をもし法律に反映させることができたなら、現在のように作品を利用して楽しみたいユーザーたちが過度にリスクを恐れて自主規制する必要はなくなるかもしれない。

 そこかしこで「最悪の場合、訴えられるかもしれませんよ」などと警告され続けたら、法律に詳しくない人は、それを過剰に恐れてしまう。著作権の侵害を主張する人のなかには、そうした作品を利用する自由についての一般の理解不足につけ込んだり、著作権が及ばない範囲にまで権利を行使できると法律を自分の都合のいいように解釈したりして、人々の自由を制限しようとする事例が後を絶たないようだ。友利昴『エセ著作権事件簿—著作権ヤクザ・パクられ妄想・著作権厨・トレパク冤罪』(パブリブ、2022)は、そうした法を逸脱した権利行使の事例集としてさまざまな裁判例を示しながら、「エセ著作権者」たちのロジックにみられる間違いや思い込みを痛快に批判している。友利は、著作権についての啓蒙の在り方についてまえがきで次のように述べている。

今必要なのは、「アウトかも!?」などとあらぬ疑惑を寄せられたときにそれをはねのけるための勇気と知恵と心構えであり、たとえ「ネットで拾った画像・トレース・アニメのパロディ」であろうとも、合法かつ正当に利用するための知識とロジックを身に着けることである。

 私は日本の美術品の画像をTwitterに投稿して、いろんな人にアートの魅力を身近に感じてもらおうという非営利の活動をしている。活動の主な内容は、著作物の複製(デジタル画像)をネットにアップロードする行為であり、誰かの権利を侵害しないためにも、権利侵害の可能性を心配して過度に自主規制しなくて済むようにするためにも著作権法の理解が欠かせない。私も作品を享受する一人のユーザーとして、文化の発展のためになるような活動ができたらいいなぁという、自分で言うのもなんだけど完全に善意の活動なので、できるだけそれを認めてもらいたいとも思っている。
 そこで、私の著作権についての理解をここで整理しておきたい。それとともに、美術と著作権に関して学ぶなかでこれはどういうことなのか?と疑問に思うことが多々あり、それはこういうことだったのかという判断もだんだんとできるようになってきたので、それを共有しておきたい。
 美術品と著作権に関する基本的な事項については、『改訂新版 現場で使える美術著作権ガイド 2019』を参照されたい。この本は、美術館などの施設で働く人に向けて著作権法を解説するもので、実務に関わる内容がほぼ網羅されている。

ただ、作品を二次利用するユーザー側への目配りはなされていないので、とくに著作権保護が切れた作品の扱いに関しては、この本だけではわからないことがいくつかあった。
 著作権法において、絵画のような平面作品をただ単純に正面から撮影した場合、その写真には新たに付け加えられた創作性はないものと見なされ、著作権は発生しないと判断されている。つまり、撮影された作品自体の著作権保護が終了していれば、著作者人格権を侵害しないような配慮が必要になる場合はあるものの、その写真は誰でも自由に使って問題はない。ところが、美術館のウェブサイトなどにおいて、画像の使用を禁止したり、許諾や使用料が必要であるという案内をしている施設がけっこうある。これは法的根拠はとくにないが、慣習としてこのような対応をしていると思われる。

 しかし、利用に際しては許諾は本来必要ないはずだが、いちおう仁義を通して申請をして、もし仮に断られてしまった場合、本来利用できるはずのものが利用できないことになってしまう。このような事態を福井健策は『著作権の世紀 ――変わる「情報の独占制度」』(集英社、2010)のなかで「疑似著作権」と呼び、著作権と同様の権利をそんな権利はないにもかかわらず行使していることになっていると指摘している。また、友利は、『エセ著作権事件簿』で次のように述べている。

本来、〔たとえば《鳥獣戯画》のような〕1000年前の絵画の内容をどう利用しようとも、もちろん誰の許可も必要ない。もっとも「許諾がほしい」という人がいて、「許諾します」と応じるのは、当事者同士が納得しているのであれば、かまわないだろう。ただし、著作権の切れた絵画を自由に使っている者に対し、単なる所有者がクレームをつけ始めたら問題だ。(p.395)

そして、友利は、実際に所有する作品の使用に関して所有者が出版社を訴えた錦絵コレクション事件を検討し、絵画の画像を無断で使用しても所有権の侵害にはならないし、「出版社は他者が所有する絵画などを出版物に掲載する場合は、所有者の許諾を得て対価を支払う「商習慣」に反しているので違法である」という原告の主張も裁判で否定されたことを指摘している。
 とはいえ、作品を撮影するためにはお金がそれなりにかかるだろうし、もしその費用を回収したいということであれば、動機として理解できなくはない。その場合の落としどころはないのだろうか。
 イギリスのテートのウェブサイトでは、著作権がない作品の画像は自由にダウンロードできるが、テレビ番組やポスターなどの印刷物への使用に耐えうる高精細な画像に関しては使用料を徴収するというシステムを採用している。一般向けには低品質とはいえ、それなりに画像サイズも大きく、SNSやブログでの使用には何ら問題ない品質の画像が提供されている。ユーザーが作品を利用する自由をなるべく制限しないかたちで一般のニーズに応えつつ、営利目的などでの利用においては撮影などにかかる費用も回収できるようなモデルの一例といえる。このモデルであれば「疑似著作権」のような事態は回避できる。

 しかし、それでもなお問題なのは、高品質な画像の使用にたいして料金を取ったり、お金を払わないなら使用を禁じたりする法的根拠がどこにもないことである。テートのモデルも結局のところ、それが当然のルールであるかのような体裁で、寄付を半ば強制的に求めているようなものではないかとも思える。寄付を強引に求める副作用として、高品質な画像をお金を払わず使用するのはなんだか後ろめたいような感情を抱かせることになる。なにも法に反することはしていないのに後ろめたさを感じさせるようなルールの押しつけはあまり良いことではないと思う。

 その後の調べで、イギリスの著作権法においては日本やアメリカと違い、平面作品であってもそれを撮影した写真に著作権を認める古い判例(1869年)があり、それに倣って美術館が警告を行うケースがあることがわかった。2009年に国立肖像画美術館がウィキペディアを運営する非営利組織ウィキメディア財団に対して所蔵品の画像の削除を求めたケースがそれである。このケースは和解に終わり、裁判には至らなかったが、テートの運用方針もイギリス著作権法において根拠づけられる可能性があるようだ。なお、和解によってWikipediaの画像は削除されず、国立肖像画美術館の所蔵品の画像ファイルに対してだけ地域によっては画像の使用は著作権違反の可能性があるという警告文が添えられるという対応にとどまった。

参考:島田真琴『アート・ロー入門:美術品にかかわる法律の知識』(慶應義塾大学出版会、2021)

2022/9/22 追記

 やはり一番望ましいのは、著作権が切れている作品に関しては最初からパブリックドメインであることを明確に示し、どのような画像の使用も制限しないことだろう。公共の文化施設としての美術館の役割に照らせば、収益化は本来の目指すところではないし、作品を利用したいユーザーたちもより品質のいいサービスが無料で受けられるなら、それが一番うれしいのは間違いない。アメリカのメトロポリタン美術館をはじめとして、高品質な画像の使用にも制限を課さずに公開し、自由な利用を促している施設は近年増え続けている。このような取り組みができるのは、潤沢な予算によって運営している業界最大手の施設ばかりであるのが現状だが、最前線に立つ組織がこのような方針をとることで、ゆくゆくはスタンダードなものになっていくことが期待される。

 なお、美術館によってはクリエイティブ・コモンズ・ライセンス(以下CCライセンス)を用いて、画像の利用方法を細かく制限していることがある。さきほど紹介したテートでもCCライセンスを使用し、著作権が切れた作品の利用であっても、作者やタイトルの表記を義務づける「表示=BY」、営利目的での利用を禁ずる「非営利=NC」、作品の改変を禁ずる「改変禁止=ND」などの制限を課している。だが、本来CCライセンスとは、著作権を持つ作者がその権利をすべて、もしくは部分的に放棄することで、より自由な作品の利用を許可する目的で使用するものである。所有者には存在しないはずの権利を部分的に放棄するという名目で画像利用に制限を課すためにCCライセンスを使用するのは誤用であるという指摘もある。
 ちなみに、私の活動では基本的に、どんな作品であろうと「CC BY-NC-ND」の範囲でしか画像を使用していないし、これからもこの範囲を逸脱するつもりはない。これは自主規制ではなくて、むしろそうすることが活動の趣旨に合致しているからだ。もし気に入った作品があれば、同じ作者の作品にも興味を持ってほしいから作者やタイトルを示しているだけだし、実物を見る機会をもってほしいから所蔵館を示しているだけだ。

 一方で、彫刻や工芸品などの立体的な作品の画像においては、 CC0(クリエイティブ・コモンズ・ゼロ)を用いて、全ての著作権等の権利を放棄していることを明示することに積極的な意義がある。平面作品の場合とは異なり、立体作品を撮影した写真は、被写体となっている作品に著作権がなくても写真に著作権が認められることがあるからだ。たとえば、ミケランジェロのダヴィデ像はそれ自体に著作権はなくとも、それを撮影した写真に創造性が認められるとき、写真に対して著作権が発生する。
 内閣府が主催する、デジタルアーカイブジャパン推進委員会の資料「デジタルアーカイブにおける望ましい二次利用条件表示の在り方について(2019 年版)」では、次のような指摘がなされている(強調したい箇所は私が太字にした)。

CC0 とは、全ての著作権等の権利を放棄することを意味する。これは、著作権に基づいて訴訟を起こす権利、逸失利益等が出て損害賠償を求める不法行為に基づき訴訟を起こす権利等も含めて放棄し、著作者人格権など放棄できない権利については行使しないことを約束するといったことなどが含まれる。最近、海外のデジタルアーカイブでは、創作性の有無に疑いの生じ得るパブリック・ドメインのデジタル複製物に関しては、CC0 が推奨されており、実際、多くのアーカイブ機関では非常に大規模に CC0 の表示を採用する例が増加している(メトロポリタン美術館、アムステルダム国立美術館、シカゴ美術館など)。

特に 3 次元作品を撮影した写真等の場合、写真撮影者(データ作成者)の創作的表現の有無について活用者が厳密に判断することは困難であるため、2 次元作品の忠実な複製など、データ作成者の創作的表現が存在しないことが相当程度確実である場合等を除いて、CC0 によりデータ作成者自身の権利を明確に放棄することが、二次利用促進の観点からは望ましい。

「写真撮影者(データ作成者)の創作的表現の有無について活用者が厳密に判断することは困難である」とあるが、ではどのように困難なのだろうか。私のような素人からすると、立体作品の画像を美術館がウェブサイトなどで公開するとき、写真作品としての創造性を認めて独立した作品として扱うわけではないから、平面作品を撮影した場合と同じ扱いをするのが妥当ではないのだろうかと思える。だが、どうやら事情は複雑らしい。デジタルアーカイブジャパンの資料には次のような見解も示されている。

3 次元の作品・原資料であっても三面図的に記録した場合は、新たな創作的表現がないとして、撮影者やデータ作成者の著作権が認められない場合も多いと考えられる。ただし、特定の角度、照明等により撮影者の芸術表現として撮影された写真等、撮影者の創作的表現が認められる場合には、その創作的表現により、撮影者の著作権が発生する場合があることについて、注意が必要である。

立体的な美術品の二次利用に関して裁判にまで発展した例はほとんどなく、商品を撮影した写真の商用利用に関してはいくつか判例はあるが、それでも専門家の間で通説が形成されるには至っていないようだ。そのため、立体作品を撮影した写真の創造性の有無を客観的に決定するのが難しいのであれば、公開している側がどのようなスタンスで公開しているのかで判断するのがシンプルでわかりやすい。そして、二次利用促進の観点からすれば、権利を主張しないという意思を明確にできるCC0を使用することで白黒はっきりさせるのが有効であり、推奨されるということになるのだろう。しかし実際のところ、所蔵品を撮影した写真には創造性があるので使用はしないでくださいなどと案内をする美術館なんて見たことも聞いたこともない。もしそのように主張するとしたら、その写真を一つの作品としてそれ相応に扱う必要があるだろうし、それは記録としてのアーカイブの役割に反するのではないだろうか…。
 現時点で専門家の間でも判断が難しい以上、立体作品の画像利用はグレーゾーンの範疇に留まることになる。ということはつまり、リスクの回避を優先するのであれば、CC0によって公開されている作品だけに使用を限定し、それ以外のものは自粛せざるを得ない。そうなると、まだデジタルアーカイブが十分に整備されているとは言えない現状では、私の活動の幅はかなり狭まってしまう。
 私は最初のうちは、リスクを考慮して絵画だけにしぼって投稿していたが、それだと美術史のごくごく一部しか紹介できないことになってしまうので、葛藤と熟慮の末に立体作品も投稿することにした。非営利かつ常識的な利用の範囲であれば、誰かに不利益を与えているとまでは言えないのではないかという判断だ。立体作品の使用に関して言えば、三面図的な写真を利用するように心がけたいと思う。だが、教科書にもよく載るような著名な作品でも、三面図的に撮影された写真が見いだせないことはよくあるため、その場合は止むを得ず三面図の範囲に収まらない画像を使用することもあるかもしれない。
 もし私の活動が誰かの不利益を生んでいるとしたら、それをむしろどんどん指摘してもらいたい。権利者から申し立てがあれば、私は真摯に対応していきたいと思う。しかし、そうは言っても、最悪の場合、裁判になるかもしれないというのはやっぱりかなり心理的負担なので、作品の二次利用の条件はできるだけ自由度を高く保つ方向性で今後アーカイブなどの整備が進んでいってほしい。そういう意味では、デジタルアーカイブジャパンの資料は希望がもてる内容だった。
 より正確に著作権法を理解しようとすればするほど、自分の行動のリスクばかりが目についてきて、一番手っ取り早い解決策が自主規制になりがちなのも現状では仕方のないことのように思える。だが、最初に述べたように、著作権法が条文で定めていないだけで、作品を利用するユーザーの権利というものはあるし、著作権法の目的である「文化の発展」には権利の保護と享受する自由のバランスがかかせない。そのことを踏まえつつ、グレーゾーンのようなはっきりした解答が見いだせない問題に対しては、自分の良心に照らして対処するほかないように思う。

つづき

その後、立体物を捉えた写真に著作権が発生する可能性についてさらに考えました。結論としては、今回の考えを改めて、そうした写真の利用は控えることにして、写真としての著作権が放棄されたもの、もしくはすでに失効しているものだけを利用するという道を模索していくことにしました。


文中で言及しなかった参考文献とかネット記事とか



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