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最低賃金の意味を知った日

以前、といっても15年ほども前のことだけど、とあるプロジェクトに参加するために一定期間働いてみないかという話があり、やってみることにした。
コレクションに参加する作品制作のための技術者募集、という話で、賃金については出来高制といわれ、具体的な金額は示されなかった。

月曜から金曜、朝9時から夕方5時まで途中休憩1時間の8時間勤務。
その時間をアトリエに滞在して仕事をこなして欲しいと言われ、私はその通りに出勤し、時間内はもくもくと作業をこなした、つもりだった。

1か月経ち、給料の日。
そこに示されている金額は¥18,000だった。
0がひとつ足りない?何かの手違い?と思ったけれど、確かに、¥18,000。

「出来高制」は支払い側の判断によるもので、私の1か月フルタイムの時間拘束労働は、¥18,000とされた。


かつては服飾の仕立ての業界に限らず、いろんな業界に、徒弟制度や見習い制度は存在していたと思うけれど、これはわずか約15年前の話。
最低賃金など、雇われる側の社会的権利は保証されて久しい時代の話だ。

現代の社会制度からいうと、あってはならないと思うけれど、雇用側は、
「美しい服飾素材に触れ、海外につながる素晴らしい仕事をさせてやってるのだから、それはやりたい仕事をやっているという対価で。」という気持ちがあったようだ。

仕事のやりがい、と言えば美しい響きだ。
でも当時の私は、自分を破格値で見積もられた気持ちになってしまった。
労働の対価をやりがいとするのならば、生活する上でのすべての事象を、やりがいで交換するシステムでない限り、それは成立しない?

労働基準監督署に相談するすべもあったのだろうけど、静かにその仕事を辞めた。


だけど、
当時は苦いと思ったこの経験から、私は、最低賃金の意味を体を通して知ることになった。

各地域で設定される最低賃金は、人が1時間拘束されて働いた場合、最低でもその金額がないとその地域では生活できないということを意味しているのだと思う。

現代に生きる私達は、生きるための衣食住、服や食物、住む場所を得ることをお金を介して交換している。その最低限の生活を営むための金額が、最低賃金によって保障されている。

私は自分が生きていくうえで、選択の判断基準をお金にはしてこなかったつもりだけれど、
徒然と綴るこのnoteのなかで、自分の仕事とお金との関係性を、すくいあげて綴っている。

このことは更に深く振り返り、自分の中の覚書としてとどめておきたいと思う。次の機会に。



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