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思い出せない物語の続き

父が80歳になる。
私の中に宿る、子どもの頃の父の記憶を、言葉にして残しておきたいと思った。

父は、昭和の戦後から高度経済成長期、そしてバブル、その崩壊を体感する時代を、公務員として生きた。

バブル期の浮かれ立つ感覚は、今50歳の私の中にも、肌感覚の記憶として残っているけれど、
今思えば、父はバブルで浮き立つその世界の少し外側を、自分らしく生きていた人だったように思う。
少なくとも私の目には、そう映っている。

公務員として、午後5時の終業後、そのまま家に帰る。
毎日きっちりと5時30分に家に帰りつき、夕食をとる。

そのあと、父はいろんな創作に取り組んでいた。
その父の、創作に向き合う姿ばかりが、今の私の中に蘇る。

師範の免許まで取った書道。
ウィークデーは、仕事からの帰宅後に筆を握り、紙に向かう。
ウィークエンドは、当時土曜日は半ドンだったので、お昼過ぎに帰宅して、筆を握り始める。
夕方から夜まで、その風景は続く。
日曜の朝、少し寝坊をして起きた私は、筆を握り、紙に向かい続ける父を見る。
脇では、父の納得のいかない作品が、くしゃくしゃに丸められて山盛りになっていた。
父は夜通し筆を握り、書をしたためていた。

そんな風景を、しょっちゅう目にした。

書道だけでなく、編み物や縫い物などの手芸も好み、器用に楽しそうに作品を仕上げていた。私の服や、布製のお人形も作ってもらった。
1980年代、私の家にコンピューターミシンがやってきた時、楽しそうにミシンをかけていた父。
料理も上手で、自分のアイデアを加えた、ちょっとおもしろい料理を作ってくれた。
私の生まれる前に独学で油絵を学んでいたらしく、花を描いた油絵が、ずっと家に飾られていた。
子どもがピアノを習い始めたときは、ピアノの経験のない父が見様見真似で私たちの練習曲を弾き始め、独学で演奏を完成させていた。
小学校で作文を書くことになり、作文用紙を近所の文房具屋で買ってきた時、父はその作文用紙に、創作した物語を綴った。

とにかく私の記憶の中の父は、書道、手芸、料理、絵画、音楽、文筆など、生活の中の「創造したい」という思いを、自分の手を通してかたちにしていた。
きちんとした性格の公務員だった父は、プライベートの楽しみとして創作を続けていた。
自分の内側にあふれる思いを、終業後に、ひたすら外側へと放出していたように思う。

私は子どもながらに、その時の集中力や、放出するエネルギーがすさまじく強力なものだと感じていた。

50歳になった私は、あの頃の父のエネルギーを思い出すことが多くなった。

・・・

私には2歳づつ離れた兄と弟がいる。
父は、私たちが小学生の時、学校で使う作文用紙の上に、3人の子どもそれぞれを主人公として、3つの物語を紡いだ。

最近になって、自分を主人公に描かれた、その物語のことをなぜかよく思い出すようになり、その物語を綴った作文用紙の所在を、実家で尋ねてみた。

その作文用紙は、
残念ながら残されていなかった。


私は、その物語の記憶を辿る。

私を主人公にした物語の舞台は、家の近所の三福寺というお寺だったことを記憶している。
4月8日の「花の日」に訪れた三福寺。
花の日のお祭りでふるまわれた甘茶をいただく。
そして主人公の私は、寺の釣り鐘の下に行き、鐘の内側の空洞の中に顔を入れる。

その釣り鐘の中で見た世界。

その世界が描かれていたように思うのだけど、どんな世界が描かれていたのかが、

思い出せない。

・・・

私の中にも、父の血が流れている。
心のどこかで、日々の生活の中で湧き上がるエネルギーを、言葉に置き換え、文章として表現したいという思いがあったのだろう。
noteを通してそれを消化するようにもなった。

父のクリエーションから繋がる、思い出せないその物語の続きを、紡ぎたい。
そう思っている。




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