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エッセイ381.ケイの息子の連れ合いも26歳で(2)


先週木曜日から、こじらせた風邪で寝ています。
頭痛としつこい咳、咳による胸痛、関節痛と筋肉痛と揃うと、インフルエンザではと思ったのですが、熱は38度なので違うと思います。

レッスンの時だけ這って仕事部屋に来て、

私:おはようございます。お元気ですか?
生徒:はい、元気です、ありがとう。先生は?
私:だめです。私は病気です。
生徒:え〜?

を、繰り返しています。

まだまだ毎回、
「先生、鎖骨は痛いですか?」
と訊かれているところなのに、・・ダブルパンチ(死語)てやつですか。

私は10年以上前からほぼ完全在宅ワークですが、そうなっていて良かった。
この連日の酷暑の中、咳をしながらあちこち行っても、こじらせるだけだったでしょう。

さて、前回の続きです。

地味〜な、体型を拾う制服に着替えてサンダルに履き替えて、
お茶出してお茶出して、お弁当出してお茶出して、コピーして。

A値+B値×C値÷0.0ほにゃらら=許容範囲

という計算を電卓片手に黙々と従事する日々。

(「良きひとのためのソナタ 」という映画があります。
主人公は、自分の盗聴の対象である夫婦に意気を感じ、当局を裏切ったため、
16年間ぐらい、地下でつまらない仕事をさせられます。
文句を言わずに、自分の中のスタンダードに準じて、黙々と仕事をするんですね。私は自分の事務員時代を思い出すと、「いやいや、16年ではなかったし」と思う習慣がついています。でもたぶん、仕事の単調さは、あの主人公のとどっこいどっこいだと思いますね!)

ロット検査で合格をもらえた会社さんたちが、認証シールを取りに来ると、資料に合わせた枚数を手で数えてお渡しし、サインをもらい、記録簿につける、そういう毎日でした。

段ボールを組み立てる、いっぱいになったらガムテープで封をする。
光速で机の上に並べられたコピーをとっていってホチキスで留める。
ワープロ(当時行政の書類は富士通Oasysだった)の入力が異常に早くなった。
そういうスキルは得ましたかな。

職場が虎ノ門で、5時半ダッシュで出ると、同僚たちと飲みに行く先は「天狗」など。六本木には歩くか、神谷町から地下鉄で行っていました。
Kento'sでオールディーズを聴きながら踊ったり、もうないけど、Cavern Clubというビートルズのライブハウスに行ったり。
それはそれでなかなか楽しかったのですが、お給料は

「え、仕事がつまらなくないか? 私の働くのは遊ぶためなの、オ〜ッホホホ!」

と笑っていられるほどの額ではなかった。
さすがに飽きました。

そんなある日、オーストラリアから来た人と友達になり、その人はシドニー・オペラハウスのコスチューム・デザインの仕事をしていたのですが、一緒にあちこち遊びに行きました。

彼にまず驚かれたのが、

いい年をして(25歳ね)実家に住んでいたこと。
海外渡航経験がなかったこと。
英語を使う仕事をしようとしていないこと。

でした。
いやいやそう言われても。
東京で私の周辺では、結婚までは実家暮らしは普通でしたし・・

私の場合は、家を出たくても、母に、

「それしたら二度と家族に戻れないからそれでもいいならどうぞ。
お母さんは間に立たないよ。
お父さんに物申したらお母さんがボコられちゃうから」
(さすがに当時、ボコられるという言葉はなかったが・・)

とあらかじめ言われていたので、一歩踏み出せなかったですね。
でもそれも言い訳でして、結局、親に従っていた方が楽だったのでしょう。

冷たそうに見える大海にザンブリ飛び込むよりも、
慣れ親しんだぬるい不幸のほうが、実はよかったりするものですから。

でね、若い衆よ、親の言うことのほとんどは、まず従わなくていいです。
聞かない方が幸せになる。
責任は取りませんが、力強くこの私が請け合います。
え、要らん?


さて、もうすぐ帰国するというころ、その友達が言いました。

君が良ければ、こちらで縁のある劇団プロデューサーに紹介するけど。

全然、全く、そんな怖いことは考えられず、でした。

しかし、その彼を見送ったあと、私の気持ちは元の平和な毎日に戻ることに抵抗を感じていたのでした。

そして新聞の3行広告で

「あなたも日本語だけで日本語を教えてみませんか
・・千駄ヶ谷日本語教育研究所日本語教師養成講座」

と言う記事を見つけたのです。

すぐに申し込みに行ったのは我ながら、💮ヨクデキマシタ💮

事務所のロッカールームで、その日の朝に冷蔵庫に入れておいたカチカチのおにぎりを立ち食いし、その頃南新宿にあった分校で行われていた講座に1年間通いました。
とても凝縮された面白い授業で、あれから100年経った今も、仲良く飲みに行った仲間のことはよく覚えています。
なんであんなに頑張れたのだろう。

その講座の修了時、学校の方へ常勤として入ってくれと言われたのですが、そのあと、思ったより生徒が増えなくて講師がだぶついた、かなにかで、時間講師に格下げされました。やる気満々だったので、がっくりです。
それから2年間、フルタイムの事務職の傍ら、会社派遣の日本語教師をやりました。

職員仕事の前の、7時〜8時とか、7:45〜8:45amという窮屈な時間に、職場の近くで教えました。虎ノ門だったので、生徒の会社は日比谷、霞ヶ関、虎ノ門、神谷町、愛宕町といったエリアでした。昼休みは、頑張れば1時までに帰って来られる「45分授業」を引き受け、走ったりタクシーも用いて、毎日綱渡り。
あんなことができた時代があったのですね。

新聞を眺めていて、日本語教師という、今まで知らなかった仕事を見つけ、即決で養成講座に入学し、というのが、ちょうど26歳のことでした。

結婚相手を見つけたのもこの仕事を通じてですし、
家族にここまで「26歳で初めのい〜っぽ」をやるのが揃っているので、今25歳の次女がこの先どう出るか。
本当いうと、今は近くに住んでいますし、長女も日本にいないので、もう少しは行かないでほしいのですが、行くと言ってきたら、
「ま、我が家は26歳があれだから」
と、すんなり思えるような気もする・・・

だといいですね! 😅

写真は、日本語教師になって何年も経ってからようやく取った、「日本語教育能力検定試験合格証書」です。






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