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エッセイ209.2022年初頭のラプソディー(8)子供はやらせればできる

珍しいことでしょうが、私は車の運転ができるようになったあと、
独習で自転車に乗れるようになりました。

私の父は、私に、三輪車より早い乗り物は一切禁じました。
子供の頃は、遠乗りをして遊びに行く友達と一緒に遊べませんでしたし、
結婚して子供が生まれてからも、ママ友が自転車で、祖師谷公園でも井の頭公園でも行く中、バスや、なんと歩きで追いかけました。祖師谷公園に着いたら、みんなが帰る支度をしていて、がっかりしましたっけ。
思い出すと切ないなぁ。
ベビーカーを押し、長女を歩かせて1時間、は、自分はいいのですけれど、
「お母ちゃん、遊びたい」「なんで遊べないの?」
と言った時の、悲しげな長女の顔が忘れられません。

他にも禁止事項が大変多く、友達についていくのが異様に大変でしたし、私はそのために常に、なにか変な子であったと思います。

「なにそれ、おかしいよ」とよく言われましたし、大学時代は、「逃げてきたら匿う」とも、男友達に言われたことがあり、恥ずかしくて家庭のことはほとんど、人に言えませんでした。

私を直接知る人は、私の普段の「高調子」とか、見せないようにしていても尋常じゃない努力をしているために、「常に、息が上がっている感じ」を、きっと感じているでしょう。
溺れないために、いつも立ち泳ぎをしているような半生でした。


話を少し戻して乗り物について考えてみると、

父は、自分が追いかけて捕まえられないスピードの乗り物に、
子供が乗るのを許せなかったのではないか

と、あるときから思っていました。
そう思えばあの「全部禁止!」は理解できなくもありません。
しかし、長年カウンセリングを受けて、まもなく卒業と言われている今になって思うと、もしかするとあれは、許せないとか支配欲でとかはなくて、単純に、子供が去っていくのが怖かったのかなぁと、思います。
そっちの方が、全てを拒否して最小単位の同居家族だけで生きようとしたことは、理解できます。
ちなみに私と姉は、父が徐々に、また一気に切り捨てましたので、親戚付き合いが一切ありません。私の娘たちにとり、日本の親族で会ったことがあるのは、私の両親と姉だけです。これもまた、なかなか珍しいのではないでしょうか。
夫の方の親戚が、ものすごく多いので、まあいいですが・・。

私は32歳まで一度も海外に行ったことも、特別な教育も受けたこともありませんが、高校生の頃から一応は英語を話しました。今は、家族からはバイリンガルと言われ、外国人を相手に日本語を教えています。それにかけた頑張りはやっぱり変ですし、自分ながら不憫ですが(父に禁止されずにできたことは英語の勉強だったので)、人生をビフォー・アフターにわける鍵でしたので、やっぱり頑張ってよかったです。
若くして日本語教師になり、会う人は全て外国人であるのに、32歳まで飛行機に乗ったことがなかった。珍しいよなぁ・・。
旦那はニュージーランド人で、結婚以来、毎年のように子供連れでNZに帰省していますが、結婚するまでは真に、国内限定の人生を送っていました。

父は子供が、自分だけの行動、友達と正月にスキーに行くとか、大学の合宿に行くなどを異常に嫌がりました。さすがに大学の合宿は、姉が強硬突破してくれたので行きましたけれど。留学など、短期でも話のほかです。

「外国に行きたがるようなやつは、亡国の徒だ。
幸い我が家は、俺がお前たちに正しいことを教えたから、
そんなことにならなかったがな」

と言われて育ちました。
正座させられてそれを聞きながら、

行きたいに決まってる YO!

と心の中で叫んでいました。なにしろ、

「そんなに行きたいなら勝手にしろ。ただし、落ちない飛行機があったら乗れ」

と言われて、守っていましたからね。
信じられないと思いますが、私や姉のように育てられると、そうなってしまうのです。
(ちなみに、縁を切られるのが嫌で従っていたというよりは、そういうことを父にさせたらかわいそうだから、でした。そのあたりのねじくれた経緯は長くなるので割愛しますが、物心つくかつかずの頃から、「親の悲惨な人生の物語」を丸投げされた子供って、不幸ですよ〜。いや、悲惨!)

親は「自分語り」は禁止。執行猶予なしの実刑判決にしましょう。

私がいい年になってから車の免許を撮ったのは、働き続けるために子供たちを、
車の距離の保育園に入れなければならなかったからです。
また、将来ニュージーランドに移住すると、車は必須ということもありました。
当時1歳の次女を前抱っこし、3歳の長女の手を引いて、教習所に通いました。
でも、「危ないことは全面禁止」で生きてきたので、運動神経も勘も本当に悪くて、免許を取るまでには、お金と時間がかかりました。
遂に乗れるようになった車に、自分で初めて買った自転車を積み、
子供が保育園に行っている日に、野川公園までこわごわ運転して、
そこで自転車の練習をしました。
今思うと、よくやったなぁと思います。
一度畳んだ自転車を引き伸ばせず、一人で公園で四苦八苦したことも、今思い出しました。
結構蓋しているなぁ自分。

後年、子供たちが自転車に乗るのがとてもに怖かったのですが、
これは間違いなく、自分の経験値が低いためです。

経験、特に、失敗する経験から阻害するのは、子供に対する精神的虐待です。

お前らに自由にさせたら、どんなとんでもないことを引き起こすかわからん!

というメッセージを父から浴び続けたために、
根本的に、自分と他人に対する無条件の信頼を持つことに失敗しています。
何をするにも、恐れと不安をまず乗り越えなければならないので、ものすごく疲れるし非効率です。

それを変えてくれたのが、夫です。

もう、白馬の王子様ですよ。



出すかまたあれを。



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子供には、なんでもどんどんやらせればいいのです。
怪我をしても、かさぶたが剥がれて、なんということはない。
そのあとは「それ」ができるようになる。
そうやって、何もできなかった危なっかしい子供が、
たいていのことはまあまあできる大人になるのでしょう。

その過程で、世の中はそんなに怖いところでも、嫌なところでもなく、
他人は信じて、頼ったり甘えたりしていいのだということを、子供は実感でき、
世界を信じられるようになるのです。

それを禁じられていた私の半生は、熱い水飴の川を遡って、喘ぎながら坂を登っていくイメージがあります。
徳川家康なのか。
あのエネルギーを有効に使えるのなら、原発要りませんというぐらいです。

父を反面教師とし、ああいうことはしないと思いながら子供を育てました。
もちろん、子供の反発に会い、家出されたりもしながら、生死に関わらない限りは、できるだけやりたいということをやらせてきたつもりです。バランス感覚のいい夫が、しょっちゅう間に入ってくれましたから。



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夫よ本当にありがとう。
もし差し支えなかったら来世・・あ、それはもう言いましたっけ。


彼女らが高校生のころからたまに言っていたのは、

「望まない妊娠と、ドラッグだけは、だめだよ」

でした。自分と周りの人を苦しめますから。これはこの先も動かしません。

いや〜〜〜、本当にあの家を出てよかった。
母の死で、義務感だけでつきあっていた実家に滞在して、心からそう思いました。


この件、もう少し語っちゃいます。重い話OKの皆さん限定ですね。
堤防決壊して、申し訳ありません。



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