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エッセイ469.小さなタイムカプセル:辻堂

辻堂の街に出られなかった話をします。

最近海外在住の友達が帰省をし、短い日程の中、たくさんの時間を割いてくれました。
この人のご実家が、私にとっての故郷である、辻堂です。
母方の祖父母の家でいとこと遊んだ思い出がたくさんあります。

今は駅に大きなモールができてずいぶん変わったと聞きましたので、この人と辻堂で会うことにし、朝から楽しみにして家を出ました。

以下、超個人的な思い出話になります。

子供の頃、祖父母の家に行くには、東京駅から湘南電車という、緑とオレンジの車両の電車に乗りました。

今回、小田急線から乗り換えて藤沢駅のホームに入ったら、懐かしいこの車両を模したキオスクがありました。


左、今の湘南電車、右はホームに載っちゃった湘南電車、いえ、キオスクです

行きか帰りのどちらかに、どこかの駅で(どこだったのだろう、藤沢?)「鯵の押し寿司」を買ってもらい、電車に揺られながら食べるのが楽しみでした。味覚は記憶では再現できない、思い出せないと読んだことがありますが、私には確かに今も、あのひんやりした甘酸っぱいご飯と、ほぐれていく鯵の身の食感が思い出せるのです。


大船軒の HPより

その当時のお茶は、ポリ容器に入っていて、無茶苦茶熱く、細い細い針金の「持つところ」がついていました。熱くて、子供には持てなかった。小さなカップは四角く突き出した四角いポリでした。


カップの持ち手は見えていません。

そういえば、ドラマ「不適切にも程がある」で、路線バスで主人公がタバコを吸い、バスの座席に灰皿がついているのを見ました。さすがに、あの混んでいるバスでの喫煙は、私の記憶にないのですが、それがドラマの文法というもので、そういうことを指摘するのは野暮なのだそうです。けれど、あの灰皿と同じものが、湘南電車にはついていた気がします。・・しますが、湘南電車は座席固定で向かい合わせだったようにも思うので・・人間の記憶なんて、当てになりませんね。


春夏の休みと、年末年始に、母に連れられて辻堂は浜竹四丁目というところにあった祖父母の家に行きました。父は仕事があったので、帰る時だけになぜか迎えに来て、みんなで1日を過ごし、暗くなる頃に帰途につきます。
大船の駅のホームの屋根越しに、青白く照らされた大船観音が見えてきます。
怖い、いつ見てもちゃんと怖い。
あそこまで大きくする必要があったのでしょうか。
考えたら、夢に出てくるぐらい印象深い観音像ですが、一度も大船で降りて、側まで行ったことがありません。もう大人になったので、一度話の種に行ってみようと思います。


辻堂の駅には跨線橋があり、祖父母宅は東京を背にすると左側へ、海岸の方には右側に行くという記憶があります。ずいぶん前に亡くなった叔母の一人が、この跨線橋でジョン&ヨーコに会ったと言っていました。
「おばちゃん、ただのロン毛のカップルじゃなかった?」
と聞いて、写真も見せましたが、確かにこの二人だと申しておりました。叔母が正しければ、私はまたここで、「ジョンとも、ヨーコとも、二次の隔たりで繋がった」ということになります。
おめでとう自分。
「私に近い6人の他人」については、お時間のある方はこちらへどうぞ。


駅から歩いていくと、すぐに空き地の多い住宅街となりました。その道も舗装していなくて、松ぼっくりが落ちている砂地です。空き地には鉄条網が張られ、松の木が多く、そこから松ぼっくりが転がってくるのです。石ころや松ぼっくりを蹴飛ばしながら、15分も歩くと、立派な門と、ブロック塀と生垣に囲まれた祖父母宅に着きます。母一家は戦時中、空襲を心配して三軒茶屋から辻堂へ引っ越してきたのだと聞いたことがあります。
祖父が弁護士だったか専売公社の人だったかで、母の小さな頃には、家に書生、姉や、ばあや、というような人たちが一緒に住んでいたそうです。私の母も私も、驚くほど晩婚ですので、親戚がみんな年寄り。
集まるととんでもない昔の話が出て、小さい頃はよく驚いていました。

庭には、蓋をしてあるけれども、今も使えるという井戸があり、広い台所には、なんと手漕ぎポンプがあり、キコキコとハンドル?把手?なんというのですか、あれを漕ぐと、しばらくしてからガバガバガバ! とか言いながら、冷たい水が出てくるのでした。

子供はすぐ退屈するので、母か叔母、または大きな従姉妹が、小さいのを連れて辻堂海岸へ散歩に行きます。出ていく時は、台所を通って勝手口から庭に出て、そこから外に出ます。なぜかというと、外歩き用のちびた下駄が、子供の数ぐらいはその土間にあったからです。砂地を擦っていく音と感覚が、今でもふと蘇ったりします。

辻堂海岸は、今では嘘のようですが、海岸になってから波打ち際が延々と長く続き、ハマナスなんかも咲いていました。波が荒く、遊泳禁止の海岸で、私たちが大きくなっていく頃、高度成長期で公害が激しくなり、「オイルボール」というのが流れ着いて、ますます海には入れなくなったそうです。

独身でなんでも手作りだった叔母が祖父母と共に住んでいた家。
トースターにアップリケのカバーが付いていたり、紅茶はカップとソーサーのセットで飲み、朝ごはんはトーストでした。
法事の時にはお寿司ではなくて、オープンサンドが出てきてびっくり。おしゃれだなぁと思っていました。

従兄弟は全部で6人。私たち姉妹以外は長く泊まることが多かったらしく、各自の歯ブラシが洗面所に置いてあって、うっすら羨ましかったのでした。

叔母の晩年、夫と子供と一緒に訪れたのが最後になりましたので、辻堂には20年ぶりぐらいに来ました。
記憶を辿って、その家まで歩いてみようなどと思っていたのですが、駅から直結のすばらしいモールができていて、そこの駐車場から大きな富士山を見たり、フードコートでランチをして、友人とおしゃべり、本屋を始め、充実のショップで買い物をしているうちに真っ暗になってしまいました。
締めの飲みも、駅から直結のビルの中の居酒屋で、暗くて灯りの数も少ない夜景を見ながらでしたので、とうとう駅から出られないで終わりました。

飲みながら暗い外を見ていると、遠くにときどき灯りが回ってくるのは、灯台だったと思いますが、海のどの辺のものなのでしょう。私たち子供がプールに行った「ちさんセンター」も、広大な海岸も、もうないのだそうです。

今年はいとこたちに会おうという話も出ていますので、いろいろな話をしたいと思っています。

私的なタイムカプセルを開けました。
読んでいただいてありがとうございました。

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