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語るのイデア



序章

今と昔の語るについて

昔から「語る」の言葉は大きな意味を秘めており、単語のみならず「物語がもの話しではないのと同じく、背中で話すことは無くとも背中で語ることがあるように」を始めとして{言う・話す・語る}の三段階に分けて意味を学ぶようにコミュニケーションの調査性の最終段階とも表現出来得ることを「語る」の文字に秘めていた。
そして昨今では意味を変えることは無くとも、SNSや複数のメディアを通して「語り」は一種の必然性を持ち始め「自語り」「オタ語り」等が頭角を現すが如く、「語り」は所作の範疇を超えて「コミュニケーションの一種」として役割を担い始めた。
これは日本語としてや「タミル語(語源となった言語)」としての枠組みを大きく超えて、コミュニケーションの需要が高まるにつれて、現代の話者及び我々が単語へニュアンスを付与したと言っても過言ではない。
端的に「語る」はコミュニケーションの通常ツール化された。

本稿の方針

その理由としては自由主義を1980年代から謳歌し続けているアメリカから政治的影響を受けた日本内でも、緻密な文化交流せずとも政治的副産物として個人主義が主流になった影響も大きいと言っても過言ではない。
ただし今回はこの事態が発生した状況分析よりも、この「語る」がコミュニケーションツールとして多様され過ぎてしまい、「語る」のイデアがその本質を失った状態で伝承され続けることへの警句を記載していきたい。
また「語る」と「話す」の違いを明確化させ、その違いに関しては精査していき幾つか例題を用意する。ただしこれらは片方は「○○だ」と判別を行うことも目的ではないことを改めて記載する。
最終的には語りが増えたからこそ、その形状を維持し続けることによって日々のコミュニケーションの質が上がり、たた様々なコンテンツを摂取し続けるだけでなくより細かく意図を把握できるようにもなれるだろう、という祈りを込めた内容も記載する。

話しと語りの図面化

話しと語りの違いに関しては、序章にも触れた通り「物語がもの話しではないのと同じく、背中で話すことは無くとも背中で語ることがあるように」と記載したが、これをより直感的に理解するために図面的例題を用意する。

話しの例題

話しは事実性が高い割合を示し、話者によっては感情も部分的に含めるが、話し途中の視点やスケールが大きく変わることは無い。また主に口語を交えつつ話している舞台の場所や時間も限定的になる。
これをいざ図面で用意した場合は、繋がれていない状態の点ツナギになる。話している上でどの場所に点があり、点が幾つあり、点のばらけ方を説明できるが、互いに干渉しないために高い客観性を保持している。幸いにも下記画像は判り易い点ツナギを用意したが点ツナギは補助模様があったり点の場所自体が形を縁取っている場合もある。

回答前の点ツナギ

ただし話しの場合は点毎の大きさや話し途中で明確に言われる点の数が異なる可能性もある。また話しが続いている場合等は、前提として幾つかの点が既に記述された状態になりうる。

語りの例題

元来「語る」ことは発生した事象や体験した事実等を、客観性を除き語り手の主観があり、その主観から汲み取った感情や教訓も共有することを意味する。 なので上記にも触れた「自語り」の場合は自分の体験談からなる教訓や学び事もあれば「オタ語り」には話し中のコンテンツ内から得られる新しい視点や普段では経験できない描写から得られる観点が有る。
ここのポイントとしては「語り」は、飽くまでも語り手の主観から得た内容を共有する所作の方が言葉の本質を担うことであり、その他要素は副産物にしか過ぎないという点。
よって以下の蝶の点ツナギの4つの結果を記載する。

様々な蝶の点ツナギ例(間違い含め)

語りに置いて点ツナギは点が繋がれている状態になり、何をモチーフにしていたのかも判明するし、上記図の通りに解釈が異なるケースも多発する。
ただこの中には書き手の意図が含まれており線毎の解釈も存在する。今回は全部完成されているが一つの点から伸びていく線に対しての選択と意気込みが含まれるため点ツナギが完成されてる必要は無い。また点からの誘導はあれど最終的な意思決定を経て蝶を描く事が「語りの例題」として相応しい。

当てはめる必要のない評価システム

上記の例題で示していたのは、話しと語りの本質である。それ以外のものは副次的であり意図を分離させるべき。
使用されている言葉や文章の長さ等は日本語文章の側面としての評価。
取り扱っているテーマは文化面としての評価。
最後に語りに対する数字化は、メディア媒体としての評価。

語りの相互承認性

語りの例題で示した通り、語りには語り手の意志が含まれる。この意志の中にて使用された言葉、取り扱っているテーマ、聴かれた(読まれた)回数は、その意志の純粋性に関与するハズが無い。
だが語り手がそれ以外の理由を含めて語りを展開していくケースが多発している。聴かれた回数は語りての今後の仕事方針に関わり、取り扱っているテーマは自身が獲得している個性及び理解している文化面の提示、使用する言葉は基本的な技能の再確認、どれも指標として用意しやすい。
これは飽くまでも語り手の視点の示唆。上記の別評価システムを適当にばら撒いておくと、他者が語りを受け取った時にも同じく適当に評価しやすい。言葉を借りるなら「表現が上手い、最近の話題についていってる、みんな読んでる」等は語りへの本質に関連する誉め言葉ではない。
そして語りは原則的にメッセージの共有する側面が強いため、評価され評価しやすいことは相互承認を促しやすいことも含むし、逆説的に相互承認しにくい語りは評価しにくいという帰結に到達し得る。

不安と「間違った解釈」

特に語りは関連性や解釈の提示を含めるため、口語にせよ文語にせよ長引く可能性が高く、コンテンツとしての消費カロリーが高い。
だらだらと書かれた文章の場合には文字数が多い、コンパクト過ぎる場合には段落毎の構造を常に意識しながら読み進める必要があり、使う単語が強ければ議題が肥大化してると感じる等、カロリーが高くなる要素はふんだんに含まれる。
ただし語りは相互承認の側面も頭角を現し得ることは上記に示した通りで、理解したい「語り」が、語りの本質から外れた状態の意図と共に、読まれる可能性もある。これを読んだ末に得た、コミュニケーションとしての不一致や使われる単語の不快感に対して、漠然的に「語りが好きじゃない」と分類付けされる可能性も同じくある。

たとえ話として

「推しが語った最強チャーハン」という記事(語り)が1万文字もしくは10分以上展開されたとする。幸いにもチャーハンは十分メジャーな食べ物で、受け取り手の食べる食べないの選択関係なく想像できるし、最強チャーハンへの解釈も比較的受け取りやすく、途中で出てくる調味料や品物も馴染み深い物の可能性が高い。
ただしこの「最強チャーハン」が唐突に「最強グァカモレ」とかになると途端に語りとしての評価が低くなるだろう。グァカモレを食す機会が少ないだけでなく、作る料理としての認識も低く、「ワカモーレじゃないの?」とか表記揺れのせいで「稚拙な文章」と認識し平然と思う、人も存在する。そして何よりも「メキシカン料理」に使われることが多い中で、語り手が内在的に感じてるメキシカン料理との距離感を日本料理文化圏で理解されるものとは到底思えない。
そして上記に発生した如何なる不和は「自身の知識不足、推しへの理解不足、語りというコンテンツへの不満」のいずれかに分類される、という帰結に対して大変危惧している。

原点回帰と不和の受け止め

語りと話しに違いがあるのと同じように、語りとコミュニケーションツールにも隔たりがある。そして語り手と受け取り手にも隔たりがある。
どこから感受したのか判らない物を、簡単な関連付けで同じものと認識または同時刻に受け取ってしまったりと語りに対して不穏な感情が発生し得る。だがそれはいずれも、語りのイデアとは関係ない。

メタ思考への発展

点ツナギの例題に戻ろう、語りを聞き入った結果として、点ツナギがいつも知っている形になるとは限らない。ただそれは間違いではなく、点から線を伸ばす上での意志が反映されるし、点ツナギを完成させる上でのプロセスと考慮した場合にどの線も物語の大切な一部と解釈できる。
つまり語りとは投影の明示化(点ツナギの場合は具現化)になるので、これを受け取り手がさらに解釈を深めることによって、誰が何を思っているのかを想像するための練習になる。

不和と伸びしろ

語りに対して不安や不和を覚えた場合には、別の評価要素を自分が抱えていたことを再認識することもできるし、語り手がそれを選択しなかった理由や背景を表面化させることもできる。
先ほどの「最強グァカモーレ」の場合だと「推しは最近タコベルに良く足を運んでいる」ことが判り、自分もタコベルに足を運べば語りの熱量を把握できるかもしれない。さらに再理解と追体験を進めていくと語りが真に共有したかった意志を理解し、点ツナギで同じ筆跡を辿れるかもしれない。

最後に

語りを読む・書く・聴く・話す上で、語りのイデアに極力再現することで、我々はより共有しあえる。ただの情報の羅列と軽蔑することも無ければ、不穏な感情を喉に流し込むことも無い。
なので語りがよりカジュアルになっていく昨今に置いて、コミュニケーションツール的な評価をする方がより少数になることを願いたい。
ここまで読んで頂きありがとうございました。

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