あとでメルカリで売るかもしれないからの寂しさ
メルカリで売るかもしれないからドックイヤーは付けれないし、マーカーは引けない。
この悩みを抱えた人はわたし以外にもいるだろう。
もちろん小説やエッセイのようなものであれば、途中で目印をつけるよりは勢いと没入感を大切にしたいものだ。
何かしら伏線めいたものにマーカーをするのは味気ない読み方かもしれない。
ビジネス書や実用書はただ一度読んだだけではなかなか記憶にとどめることはできないからマーカーをつけてあとで読み返すとより記憶にも定着し、よいアウトプットにつながるだろう。
わたしはこれができてこなかった。
もともと記憶することは人よりも得意だと自負していたこともある。
学生時代、世界史が大好きだった。山川の『詳細世界史』を各ページの助詞、助動詞以外はすべて緑や赤のマーカーで隠し暗記していたほどだ。
今思えば、キモイくて、歴史を学ぶことに対する冒とくとも言うべき学習方法だった。
時は過ぎ、30も後半になると、自分の記憶力がこれほどまでにあてにならないものかと辟易する毎日である。
しっかり記憶するためには、しっかりとしたステップを踏むことが必要である。(いまだに名前だけはすぐに脳にレコードされるようで主に仕事面で助かっている。)
読書をすると、なるほどという発見や、心に残った言葉に間違いなく出会うものだ。
それを今の自分の課題解決に使ったり、誰かに伝えるために引用したりする場合、記憶があやふやで因果関係が逆転しては元も子もない。
そのためにもドックイヤーやマーカーは大事なことだ。
しかし、それができない。なぜならメルカリで次の読者が待っているから。
もちろん書き込みがあっても売れる。
あれ?なんか変な感じがする。なにか間違っていたかもしれない。
わたし自身は、読書熱心な方が書き込みした本を読みたいとすら思う。
本の要点があらかじめわかりやすくなっているのは参考書のようで親切だからだ。
もしかして、ドッグイヤーやマーカーは付加価値になるのではないか。
それなのに、メルカリでは価値が下がる。
本が汚れていると思われるからだ。
それが問題だ。
誰もが新品を本屋で買いたいのが本音だろう。
いろいろな事情でそれができないから二次流通であるメルカリのようなプラットフォームを通じて本を手に入れる。
それ自体も作家・著者からしたら迷惑な流通形態だろう。
オリジナルの価値の問題は別の機会に考えたい。
今は二次流通における書き込みがあるいわば加工本の価値について考えたい。
一般的に書き込みや折れは価値が下がる。
これが新品同様の使用感で、おまけに要約でもつけていたら価値は下がらないのだろう。
二次流通に100%新品はない。本屋だってそれはない。誰かが触れなければそこに並ばないのだ。
にもかかわらず、メルカリでは、なぜきれいなものに何に価値を感じるのか。
それは匿名配送という相手に自分の素性を明かさなくてもモノの売買ができる便利なサービスのおかげだろう。
相手が何者だかも分からないから、その人の行為の一切を信用できない。
まさにゼロトラストがやり取りの前提となっている。
なんかそう考えると少し寂しい。
ドックイヤー、マーカーをしたければ電子書籍を買おう的な結論を書こうと思っていたが、メルカリの寂しさにたどり着いた。
書いている本人すらも書き出しから結論が想像できない、どんでん返しnoteを本日はお届けできたのでよしとしよう。
都会で実践できる農ライフ、読書、ドイツ語、家族などについて「なぜかちょっと気になる」駄文・散文を書いています。お読みいただき、あなたの中に新しい何かが芽生えたら、その芽に水をやるつもりでスキ、コメント、ほんの少しのサポートいただけると嬉しいです。