誘われない保留3/230929
とにかく友達に求められない人生である
それに思い苦しみ、悩んだ先に保留が見つけたものの話
▼その2はこちら▼
いなくて平気
自分が人生を通して感じてきた「いない者」としての私は、今もそこまで変わっていない。
今だって誰にも誘われないし仲間もいないしこんなにnoteを書いても特にレスポンスは無い。
デフォルトがそれなので気にしなくなってしまったらしい。
どうして平気か?
私が他人を「いないだろう者」として見ているからだ。
「だろう」となるのは閲覧数がわかるので「いなくはない」と思っているから。
どうして平気であれもこれも書けるのか?
「いないだろう人に向けて書いているから」それのみである。
言ってみれば自分のノートの切れ端に書いている気分とあまり変わらない。
なのに一応見てくれている人たちもけっこういて、公開するからにはちゃんと書くし、ヘッダーも作るし、何よりこのnoteそのものが私のポートフォリオになってくれている。
一石二鳥どころではないのだ
逆張りの「いない者」としてのプライドも生まれたらしく「いないだろう者」もあまり気にしていない。
更に言うとそれが良いとか悪いでもないと思っている
人間的に魅力がなければ人は「いない者」とされる、それだけだ。
なので私は人間的に魅力が無いという証明で、それに対しても気にしていない。
理由はちゃんとある。
そして私が「いない者」ならば、何を書いてもいいよね、と思っている、それのみなのだ。
それに対して特に感情も無い
ただひとつ、閲覧数は「いないだろう者」ではあるけど、それが私を生かしていると言っても過言では無い。
作品は見てもらう対象がいないと成立しない。
だから死ぬほどありがたいのだ。
昔のような「いない者」としては変わらないけれど、日本のどこかで「いないけどいる人」にはなっているのだろうなと思う。
けっこうそれで満足だと思えている自分が安上がりで良い。
そして何よりも、その経験をしたからこそ、私のような人の助けになりたいと思うようになった。
あらゆる理由から「いない者」とされてきた人の気持ちに、私だから寄り添える。
そうすること自体が過去の私を救うこととなれるとわかった。
やはり一石二鳥
絶対にタダでは転んでなんかやんない
余談
現在、「友達」には誘われない。
「友達」には
なので平気になった大きな理由はそこにあるのだろう。
もちろんそこで生まれる哀しみもあるけれど、やはり今までよりは全然マシになっているのは、そのおかげだろう。
暴露YouTuberだったガーシーの暴露の根拠とされているのは「窮地に立たされた自分/ガーシーにLINE一本なかったこと」と本人が言っていた。
それが本当かどうかは置いておいて、コメント欄には
「LINE一本でwwww」
「くだらなwww」
「たかがLINEだけじゃんなにこいつwwww」
の嵐だったことに驚いた。
大きなことをしでかしているのに、そのきっかけがLINEであることはおかしいらしい。
その人が怒っている理由、気にしている理由を、「自分だとしたら平気だから」と思うことと言うことは全く違う。
それが浅はかだ、と言っているのだ。
どうして「そっか、あなたはそれを気にするのね」と言って、理解してあげられないのか。
それが不思議で仕方なかった。
事実と感情を分けるというのはそういうことだ
「そんなこと気にするのか」という自分の感情と、
「あなたはそれが気になるのね」と相手の事実を自分の感情を抜いて認めてあげることが、どうしてできないのか。
そんなに難しいことなのだろうか
それが最も必要な共感なのではないか。
それなのに私には共感が足りないらしい
この世はいつも謎に包まれている
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