自分の行動の理由が分からない|遠野遥「破局」

わいは、今の大学生と接する機会はほぼない。やから、これが大学生に共感を持って受け入れられる内容なのかどうか全く分かへんのよな。ただ、この小説の主人公(陽介)を見て、「これはわいのことを書いているんじゃないか」と感じる部分があったんよ。この感覚は、太宰を読んだときの感じに似てる気がしたんよね。他の人にとってどんな作品かしらんけど、わいにとってはこれは傑作やったわ。

わいは自分の物事の感じ方について時々、「自分の感じ方はどこか正しくないんじゃないか。」と思うことがあるんよな。今まで上手く説明できんかったんやけど、陽介がやってる感じ方でばっちり説明できる気がしたんや。例えば以下。

「トートバックの横に座り、時事問題の参考書を読んで彼女を待った。内容にうまく集中できず、何ひとつ身につかなった。喉が渇いているとわかり、彼女が選ばなかった温かいお茶を飲んだ。戻ってきた彼女は、少し顔色がよくなったように見え、安心した。安心したということはつまり、私は彼女の具合がよくなればいいと願っていたのだ。

陽介は「感じる(身体)」と「思う(頭)」の順番が普通考えられている順番と違う。普通ならこうや。「彼女の具合がよくなればいいと思っていたら、少し顔色がよくなったように見えて安心した。」
「安心した」という結果から、「彼女の具合がよくなればいいと願っていた」という原因を推測することはあるで。でもそれは普通、他人の行動を見た時や。自分の行動なんやから、理由は分かっているのは当たり前。他人の行動は理由が分からんから、行動を見て理由を推測するんよね。日常的にこんなしち面倒くさいことを考えることはないけど、そういうんが「普通」ってことになっとる。
これを陽介に当てはめると、や。陽介は、自分のことを他人のように観察していると言えるんやないやろか。ほんでそここそが、わいと主人公の共通点で、正しくないんじゃないかと思っている感じ方の源なんよな。


わいは時どき、「あなたは人間味がない」と言われるんよね(せやからエセ関西弁で人間味を演出しとるんやで!)。そう言われた時に思い当たったんは、自分は感情で行動を説明にしないようにしているということやったんよね。例えば、普段なら怒らないようなことで子どもを怒ってしまうことがあるやろ。そん時に、わいが考えることが、「あぁ怒ってしまったいうことは、わいはイライラしとったんやなぁ。」なんよね。基本的に「子どもの行動にイライラした”から”怒った。」とは考えないんよ。

陽介の感じ方を面白がって読んどったんやけど、わいが主人公と重ならないと思ったところもある。陽介は「思う」ことが上手く機能していないんよな。例えば、母校のラグビー部後輩からの批判を耳にして、足早にハンバーガショップを後にする描写や。

引用を差し込みたかったけど、本文が手元にないんや。。無念。

ハンバーガショップを後にした本当の理由は、外から見れば「後輩による自分への陰口を耳にしたこと」なのに、主人公は「どれもおいしそうに見えて注文を決められない」からということになっとるんよ。
自分の行動に対して、どんな理由をつけるのか。これは大きな問題よね。外からみたら本当はそうじゃないやろ、って感じやけど、そもそも「本当の理由」って何なん。本人がそう思ってるんやったら、本人にとってはそれが「本当の理由」なんちゃうんか?そうじゃないとしたら、「本当の理由」ってわいらが呼んどるもんは、「割とみんながそうだよねって思える理由」でしかないんじゃないんか?みたいな。

この「思う」の機能不全から陽介が崩壊していく終盤の書きっぷりは見事やし、何の希望もない結末をしれっと書いて読者を突き放していく感じも、たいへん好みでございました。

まぁ色々けったいなこと書いてきたけど、「わいはこんな風に世界を捉えとるのかもしれん‼」っていう視点を与えてくれただけで、この小説との出会いにはホンマに感謝やわ。インタビューとかみとっても、この遠野遥いう人はどっか狂っとる感じがするんよね。次の作品がめちゃめちゃ楽しみやわ。

ほな。

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