世界史 その19 カッシート

 世界史シリーズをなかなか書けなかったのは、ヒッタイトと初期製鉄についてよい資料がないか探していたからです。ヒッタイト以前の隕鉄の利用なども含めて、一般向けの書籍で良いものがありましたらご教示いただきたいです。というわけでヒッタイトとエジプト新王国という大ネタ二つは後回しにして、カッシート、ミタンニ、中アッシリアなどをひとつずつ見ていくことにします。

 高校の頃、世界史の教師がシュメール・アッカド・バビロニア・ヒッタイト・ミタンニ・カッシート、アッシリアと節をつけて古代オリエントの重要な国を覚えるよう言っていたのを今でも覚えている。今回はそのひとつカッシートについて。
 紀元前1595年にヒッタイトがバビロン第一王朝を滅ぼしその地を統治せず引き揚げた。その後の空白に入り込んだのがカッシート人で、カッシート朝バビロニア王国が成立する。カッシートは非セム系の独自言語のカッシート語を話す民族だったが、文書の記録にはバビロニア語を用いたため、カッシート語については詳しくわかっていない。
 カッシートが文献に初登場するのは前18世紀、バビロン第一王朝サムズイルナの治世第9年が「カッシート軍の年」とされていることである。バビロン第一王朝は侵入したカッシートを撃退したのだと思われる。
 バビロニアの王名表にはカッシート王朝は紀元前1155年まで576年余り続いたことになっている。実際のカッシートによるバビロニア支配はバビロン第一王朝の崩壊後すぐに成立したと仮定すれば440年、カッシートとアッシリアの間に交わされた外交記録を根拠とするなら少なくとも400年となる。いずれにしてもバビロニアの歴史では最も長く続いた王朝だ。

 新アッシリア時代に写された文書によれば、カッシート王朝初期の王アグムはカッシート人の神シュカムナに遡る出自で、バビロニアの主要な神々によって王位に就けられたとされている。外来の支配者が自分たちの神を、現地の神々の中に組み込む様子が見えて興味深い。アグムは国外に持ち出されていたバビロニアの主神マルドゥクの像などを奪還し、改修した神殿に安置したとのことで、宗教面と軍事面から大きな権威づけをもって統治できたのだろうと推測される。

 カッシート王朝がバビロニアを支配した時代はアナトリアから南下するヒッタイトと、パレスティナから勢力を拡大する新王国時代のエジプトがオリエントの覇権を巡って闘争と融和を繰り返していた時期であり、多くの国々がこの2つの超大国と複雑な外交的綱引きをしていた記録が残っている。
 紀元前14世紀にアッシリアが再び国際社会に姿を現すと、カッシートの最大のライバルとなった。(以前独立した項で紹介したが、アッシリアは教科書に書いてある超大国となるまでに1000年以上にわたってオリエントで独自の歴史を紡いできた民族だ。この頃のアッシリアは中アッシリアと呼ばれる)
 アッシリアとの間には幾度も国境紛争が繰り返され、アッシリア王女を母に持つ王が、国内の反アッシリア勢力によって暗殺されたこともあった。アッシリアに対抗するためヒッタイトとの関係を強めたが、国力を高めるアッシリアの前に紀元前1225年、バビロニアにアッシリアの侵入を許し、カシュ・ティリアシュ4世がアッシリアに連行されることになった。
 その後カシュ・ティリアシュ4世の息子アダド・シュマ・ウツルによって独立を回復したが、アッシリアとの国境紛争に加えイランのエラム人の攻撃にもさらされた。紀元前12世紀前半にバビロニアのカッシート王朝は滅亡し、マルドゥク神の像やハンムラビ法典の碑、ナラム・シン王の戦勝碑などがエラム人の本拠地であるスサに持ち去られた。


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