七つのロータス 第48章 白蓮
夜明けとともに起きだして、朝食も早々に書記たちの仕事場で片端から粘土板を読む。草原の交易路がハラートによって壊滅した影響がそろそろ出始めている。食肉や毛織物、乳製品は不足しても深刻な影響はないが、岩塩の供給が途絶えているのは心配だ。
日が高くなるのを待って、大河の堤防を視察。綺麗に整備された堤防に不安はない。細かい修繕を担当している兵士たちを激励。
夕方に皇宮に戻り、若い書記たちと歓談。小賢しい書生どもは新しい摂政の教養や学識がどれほどのものか試そうと、盛んに故事や聖典を踏まえて話しかけてくる。値踏みするような相手に対して、一つ一つ気のきいた応えを返しているうちに多少は場の空気が変わった気もするが、宮廷内に味方を作る努力がどれだけ成果をあげているかはわからない。夜半には実力者であるネ・ピアとハジャルゴらを客に迎えて酒宴。疲労と退屈で苦痛が頂点に達しているが、主賓の二人にそんなことを悟られてはいけない。必死の努力で愛想よくふるまう。やがて体を引き摺るように寝室に戻り、寝床に辿り着いた記憶も無いままに朝になっている。
少しも回復されぬ疲労を抱えたまま、早朝を粘土板読みにあて、昼前からは皇宮の外に出る。殺された近衛将軍が訓練していた新兵たちは、ゴウイイが近衛将軍の職とともに引き継いでいる。行軍や集団行動の段階を過ぎ、実践的な演習に移った部隊を眺める。ジャイヌが編成を命じた時から、あまりにも多すぎるのではないかと言われていた一万五千もの兵士たち。解散して兵士を農地に返すべきだとの意見も強い。二三日中に判断を下す、と答えておく。
夕方、皇宮に戻ったところで、プハラ解放の報。貴族も書記も召使も歓声をあげ、お祭り騒ぎが始まるが、不思議なほど何の感慨も無い。明日から凱旋将軍を迎えるための準備に追われるな、というのが頭の中を通り抜けた唯一の思考である。
大規模な祝宴。戦勝を神に感謝する儀式をともなう正式な祝宴は後日行うことになるだろうが、皇宮の中ではさっそく豪華な料理が整えられ、貴重な酒が酒蔵から運び出される。無数の楽士たちが笛を奏で、竪琴を掻き鳴らし、貴顕の人々が酔って歌う。給仕に忙しく走りまわる召使や奴隷たちも、仕事の合間合間にご馳走の相伴に与る。人々の間に十人以上の踊り子が進み出て、水妖の舞を踊る。体に巻きつくような薄衣をひらめかせて踊る。踊る踊る。
清澄な鋭い音が、オランエを現実に引き戻した。ほとんどの者が、今の音には気づかずに相変らず大声で話したり歌ったり笑い合ったりしているが、 周囲の何人かの視線が自分に向けられている。膝の前の床に散らばった陶器のかけらを見て、ふと眠った拍子に杯を取り落としたのだとわかった。石張りの床で陶器が砕けた音で我に帰ってみれば、なにやらこの数日、休む間もなく働いていたこと全てが夢であったようにも思える。皇宮を留守にしていた五年間の空白を埋めようと、少しばかりやりすぎていたかもしれない。オランエは苦笑しつつ立ち上がる。今なら引き揚げても失礼になることもない。今夜こそは、たっぷりとした眠りがとれそうだ。
周囲に座を占めていたティビュブロスとハジャルゴに詫びて、騒がしい宴から逃れる。一歩遠ざかるごとに、人々の声が小さくなる。月光に照らされた回廊の片側は暗く静まった庭園。柱に手をついて、少し庭を眺めてからまた歩き出す。寝室がずいぶんと遠く感じられた。
ずいぶん眠ったように思ったが、目を覚ますとまだ暗かった。夢の中で遠くに人の気配を感じていたと思っていたのが、目覚めてもなお誰かがいるような気がする。いや。オランエは上体を起した。隣の部屋から灯かりが洩れている。即座に跳ね起き、寝間着のまま様子をうかがうと、女が声をかけてきた。
「お目覚めですか。お酒もお水も果物も用意してあります。喉が乾いていらっしゃっるでしょう。こちらへどうぞ」
オランエは寝床へ手を伸ばし、短刀を寝間着に忍ばせてから、誘いに応じた。
小さな青銅のランプの微かな光の中、女が座っていた。脇には琵琶、目の前に置いた大盆の上には水差しと杯。軽く頭を下げている女の顔は長い髪の陰になって見えないが、パーラの衣装よりも豪華に思える装束からどんな素性のものかは明らかだ。
「遊女がここで何をしている」
女は顔を上げた。暗がりでよくわからないが、整った顔立ちをしているようだ。
「先ほど恥をかかされた、その恨みを申し上げに参りました」
「何の話かわからん」
相手の意図がわからないので、努めて無愛想に応える。
「あたくしの踊りの最中、一番の見せ場で摂政殿下は居眠りをなさいました。そのうえ杯を割って伴奏の邪魔まで。あたくしの帝都で一番の遊女という評判は地に落ちました」
くだらない、とオランエは思う。
「ただ疲れていただけだ。踊りがつまらなかったのでも、恥をかかせたかったのでもない」
「疲れていると言えばなんでも許されると思うのは、殿方の悪い癖ですわ」
女はそう言って口元を押さえて笑った。
「殿下は出家前、学識深く、真面目だけれども芸事にも詳しい粋人と評判でした。その方に踊りを見ても貰えなかった、と人が噂するでしょう」
オランエは左手で髪をかきあげた。
「で、どうしろというんだ」
「何も。ただ一晩、ここに置いていただければ結構です」
「どういうことだ」
「遊女はただの娼婦ではありませんから。芸には一瞥もくれなかったのに、寝所には呼びつけたとなれば、評判が落ちるのはあたくしではなく殿下ということになりますわ」
なるほど僕は不粋で俗物で好色だと言われるわけか。
「勝手なことを言うな。だいたい、どうやってここに入ってきた」
「殿下に呼ばれた、と衛兵に言ったら通してくれましたわ」
呆れたものだ。
「もういい。僕は寝る。朝までそこにいたいというなら、好きにするがいい」
「お酒を飲んだ後でしょう?喉が渇いているのではなくて?」
オランエの背に、女が語りかける。足を止め振り向くと、視線がオランエを捕らえた。
「そうだな、水ならいただこうか」
確かに喉は渇いている。そう自分に言い訳すると、オランエは疲れで力の入らぬ体を半ば空気の中を浮かんでいるような気分で運び、盆を挟んで遊女の向かいに腰を降ろした。小さなランプの火の色を映す銅の水差しが、優雅な動作で持ち上げられて、銀の杯へと水が注がれる。どうぞと差し出された杯を、遊女の手に触れぬよう注意して受け取る。冷えてはいても、刺すほどに冷たくはない水は、舌に甘く感じられた。
「名は?」
「白蓮と申します」
女は答えながら顔を上げた。真っ向から目が合う。しばし言葉を失う。底の知れない真っ黒に澄んだ瞳が、瞬きもせず自分を見返している。
「奴隷の名だ」
話題が見つからず、つまらないことを口にしてしまう。
「とうに自由の身になっています」
オランエが言った瞬間に後悔した言葉にも、白蓮はただ笑うだけ。相手の目が細くなって、自分を解放したのに安堵する。それにしても帝国一の遊女が、いったい自分の身柄を買い受けるのにどれほど払ったものか。
「銀塊と銀の粒で大盆に山盛り。半玉の手には負えなくて、強力を雇いました」
何も聞かぬ前に女が言った。いままで幾度も同じ事を訊かれたとみえる。口に出して尋ねはしなかったものの、居心地が悪い。
「水をもう一杯くれないか」
「はい」
銅の水差しに伸ばした手。繊細な長い指が取っ手に絡みつく。細くて白い腕が、白と紅の鮮やかな衣の中へ続いている。この腕がしなやかに舞う様を見損なったのは、確かに惜しかったかもしれない。
白蓮が銀杯を差し出す。またしても女の目を真っ向から見つめてしまう。絡め取られたような心持で、無意識に伸ばした手。それを杯の間際で引っ込めた。
「杯を下に置いてくれないかな」
女の目が何故と問う。
「還俗したとは言え、いずれ修行に戻るつもりなんだ。女性に触れるのは戒律に反する。さっき杯を受け取った時も、気をつけたんだが危なかった」
白蓮は無言で杯を置いた。視線は銀杯の水に落されている。
杯の水をひといきに流しこむと、オランエは立ちあがった。
「僕はもう寝る。朝までここにいるなり、帰るなり好きにするがいい」
女に背を向けると、衣擦れの音がして白蓮も立ちあがったことが察せられた。
「えいっ」
突然、背中に抱きつかれてよろめく。日干し煉瓦の床に左足を一歩踏み出して、ようやく踏みとどまった。
「何をする」
白蓮を背負うような姿勢のまま尋ねる。振り向いたら、あの瞳の言うがままにされてしまう気がした。
「聖と俗の義務をふたつながらに果たそうなどとは、無理な話です。片方は諦めておしまいなさい」
女の腕が首に回されている。顔が肩骨の間に預けられている。素足のつま先がかかとに触れている。
「やめてくれ」
細い声で言うと、白蓮の腕がなおさら強く締めつけてきた。
「なぜ」
女の声が鼻にかかった甘やかなものに変わっている。
「誰に頼まれてきた。僕に取り入ってどうする気だ」
「あたくしは芸を理解してくださる方に、お得意になっていただきたいだけですわ」
女の手がオランエの胸を探っている。
夜明けと共に目を覚ますと、召使が既に朝食の用意を整えていた。焼きたてのパン、ヨーグルト、無花果。召使は敷物の上で丸まっている白蓮など、 まるで存在していないかのように振舞っているが、もう噂の広がることは止められないだろう。無駄なのがわかっているので、口止めする気にもなれない。
召使が引き下がるのを待って、もう一度身を丸めて眠っている女に目を遣る。敷物一枚の下はもう固い日干し煉瓦だと思えば、誘惑を振り切って寝室に立ち入らせなかったのが、ずいぶん非道いことだったようにも思える。朝食を盛った盆の前に座り、また立ち上がって寝台から掛布を取り、豪華な衣を着たままの体に被せてやる。
かたちばかりの朝食を摂ると、オランエはひとつ叫び声をあげてから仕事に向かう。部屋を出る時もう一度白蓮を見遣るが、相変らず身を丸めて眠ったまま、目を覚ます気配もなかった。