エラム人 メソポタミア文明を脅かし続けたイラン高原の人々

 メソポタミア文明の栄えたティグリス・ユーフラテス流域の西側にはザグロス山脈そしてイラン高原が続いている。現在もこの地に住むインド・ヨーロッパ語族のイラン人は、紀元前2000年紀にこの地にやって来た。ではそれ以前にイランに住んでいた人々はどんな人々なのだろう。
 イラン高原では紀元前7000年紀には居住の痕跡があり、麦を主体とする農耕が世界で最も早く始まった地域のひとつと考えられている。紀元前5000年紀にはオアシスを中心に半農半牧の生活をしながら、大きな集団をつくるようになり、文化にはメソポタミア地域との近縁関係がみられる。
 紀元前3000年紀に入り、メソポタミアが文字文化に入ると、間もなくイランでも絵文字のような記号が使われるようになった。この文字は解読されていない。絵文字は間もなく線文字へと変わった。線文字も充分には解読されていないが、後のエラム語と一致する単語もあり、原エラム語と考えられている。つまりこの時期にはエラム人はイラン高原の文化を担う存在になっていたと考えられる。
 エラム人はその後楔型文字を使用するようになり、エラム側の記録も調べることができるようになる。

 エラムの名がメソポタミア側の文書に現れるのは、紀元前2700年頃。キシュ第1王朝やギルガメシュ王がエラムに侵攻した記事がある。時代が下って紀元前24世紀頃、アッカドのサルゴンもエラムを攻めて服属させたと碑文に記している。メソポタミア側から見れば、エラムの領域は戦争に訴えてでも手に入れたい木材や鉱物の産地だった。
 エラムの人々もしばしばメソポタミアに侵入した。紀元前25世紀頃、現存する最古級の書簡には、エラム人600人がラガシュ市の財物を持ち去ったため、エラムを討伐した旨が記されている。

 紀元前22世紀、ウル第3王朝が建国されたのとほぼ同時代に、エラムでもシマシュキという都市を中心にいくつかの都市が統合され、強力な王朝が出現。ウル第3王朝と激しく争った。
 ウル第3王朝は末期にはアモリ人とエラム人の侵入に悩まされ続けていたが、紀元前2004年頃、ウル第3王朝のイッビ・シン王を捕らえてシュメール最後の王朝を滅ぼしたのはエラム人だった。

 その後、エラムはエラム内部での分裂と統合、メソポタミアの都市との抗争を繰り返した。紀元前18世紀にもメソポタミアに侵入し、メソポタミア統一前のハンムラビと争っている。
 紀元前16世紀頃からは、オリエント全域で起こった民族移動に巻き込まれたか、記録が少なくメソポタミア地域との目立った争いの記録がない。

 紀元前14世紀に成立した王朝はアンシャンとスサの王を名乗った。この王朝ではバビロニアの文化的影響を強く受けていた。紀元前13世紀末のキデン・フトゥラン王はアッシリアの進出で弱体化したバビロニアを攻めアッシリアにも軍を進めたが、エラム本国で反乱が起こり帰国しようとしたところをアッシリア王に討たれた。
 続いて紀元前12世紀にスサに建てられた王朝の元で、エラムは最盛期を迎える。シュトゥルク・ナフンテ1世(在位前1185~1155ごろ)はアッシリアの内紛に乗じてカッシート王朝のバビロニアに進出した。教科書には必ず出てくるハンムラビ法典の碑文や、スサなどイラン方面を征服したことを刻んだナラム・シン王の戦勝碑がこの頃スサに運ばれた。現在ルーブルにあるハムラビ法典の碑文が、バビロンではなくスサから出土したのはこのためだ。紀元前12世紀後半にはエラムはバビロニアからアッシリアに侵攻し、イラン高原のかなり北方まで支配下に置いた。

 紀元前12世紀末にはネブカドネザル1世がバビロニアを再興し、エラムを破った。それから300年ほどエラムは弱体化していたらしく記録が残っていない。紀元前7世紀、アッシリアのアッシュルバニパル王の時代には、エラム王が反対勢力を糾合して数度にわたってアッシリアに対抗したが、最終的に壊滅的な打撃を受けた。
 紀元前7世紀末までにエラムはメディア王国の支配下に入り、政治的な独立性は失われた。しかし新興国であるメディアや更に新しい時代のペルシアはエラムの行政制度や官僚機構を取り入れ、エラム人は政治の中枢で政治を動かした。エラム語はアケメネス朝ペルシアでも公用語のひとつとなり、アケメネス朝の中頃まで使われ続けた。

 ここまで纏めてきて思う。エラムはシュメール文明の始めごろには記録に現れ、おそらくはそれ以前からメソポタミアと緊密に関係しながら発展していた。そしてその影響はアケメネス朝ペルシアの時代まで続く。古代オリエントと呼ばれる時代のほぼ全期間、およそ2000年にわたって存在し続けた。教科書にほとんど出てこない、日本ではほとんど無名の民族といって良いような存在であるのが信じられない民族だ。
 この様に当時の大国に負けない存在感を持った国や民族でも、何かの加減で全く知られないままになってしまったものも多いのだろう。このような全く知らなかった存在に出会えるのは、学ぶことの醍醐味と言っていいだろうか。

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